自分の家が見えると疲労が押し寄せて来る。
昼間動き回っている時には疲れを感じる暇もない。脂ぎった顔の上司につき合って酒を飲み、フレグランスを纏った茶髪が大声で携帯電話に向かってわめいているのに肩を狭くしながら電車に揺られ、星光を曇らせる闇空を歩いて家路を辿るサラリーマンは我が家の前に着くと安心感と疲労に襲われるのだろうか?
俺は煉瓦色のマンションを見上げると体の芯が腐っていくような気がした。疲れと倦怠感とサラリーマンと自分が同化したような気分になって。
俺は部屋は最上階の八階だ。もしも目の前にある建物がエレベーターがついていない前時代的な建物だったら、俺は携帯でタクシーを呼んでホテルに泊まろうとしたかもしれない。金が掛かるとか時間的にはホテルに泊まった方が遅いなどということは関係ない。
とにかくそれほど疲れていたのだ。
綾波レイは行方不明になった。少なくとも俺達の目の届く範囲からは姿を消した。
電話を受けた後、折り返し保険証にある綾波レイの自宅電話番号をダイヤルしたが「コノデンワバンゴウハゲンザイツカワレテオリマセン」という電子音が返ってきた。
気持ち悪くなった俺とマコトは直接レイの自宅に足を運ぶことにした。体の調子がすぐれないという連絡が入っている以上そこまでやる義務はないのだが。
泥沼に足を突っ込む音が聞こえてきそうだった。
「本当にここに住んでいると思うか?」
マコトは声は溜息に似ていた。
俺は一度自宅マンションに寄った後、アストンマ−チンを運転してマコトを迎えに行き、地図を頼りに小一時間車を走らせ、たどり着いた先で哀愁漂うマコトの声を聞いた。
俺達の視界に映ったのはさびれたというより廃墟という言葉がピッタリの五階建てだった。外壁の塗装は剥がれているというレベルではなく、塗料に覆われている部分の方が間違いなく少ない。鉄骨が所々むき出しになっているし、一望できるベランダには錆び付いた物干し竿が打ち捨てられている。
人の気配もない。
エントランスに入っても表札がついている郵便受けは一つもなかった。奥には角材が十字に打ち付けられて入れないようになっている。綾波レイの部屋は502号室だったが行く必要はないように思えた。
マコトは近所の人に聞き込みに行った。かなり市街地からは外れていたが、畑と雑木林の間を埋めるように何軒かの人家が見えた。
芦の湖畔をくりぬくようにして作られた第三新東京市は4年ほど前に首都移転がなされたとはいえ未開発の土地がある。市街地から車を30分も飛ばせば山林に飲み込まれてしまう。視界の背景を埋める深い緑は、訪れる者をどこか知らない世界へ引きずり込みたがっているように見えた。
俺は何もする気になれずにアストンマーチンの中で音楽を聴いていた。Rod.Stewartの「Lady
Luck」。錆び付いたギターで奏でた音のようにこすれた声は、眼前の建物のためにあるようなものだと思った。
「半年ほど前に取り壊しが決まったらしくて人は住んでいないみたいだ。不動産業界は最近景気が良くないから打ち捨てられているんだろうって言っていた。」
十分ほどしてマコトが帰ってきた。
曲は「Soothe Me」に変わっていた。
「持ち主は綾波レイかな?レイの両親は結構な資産家だったらしいからその遺産かもしれないなぁ。これから市役所に行って登記簿を調べてみようか。」
「無駄だと思うぜ。」
俺はけだるい徒労が体中の毛穴から漏れていく様な気分になった。
「かもなぁ。持ち主が分かったところでレイの所在が判明するわけでもないしな。赤木教授の所に戻ろるとするか。」
赤木教授は付属病院の精神科病棟に行っているはずだった。信濃教授に会ってみると言っていた。
帰り道のマコトは口を塞いでやりたくなるくらい饒舌だった。精神科医という職業上、不安をかき消すためにはしゃぎまわるほどマインドコントロールができないわけではない。ただ単におしゃべりなのだ。
「なあ、俺もソムリエの資格を取ろうと思うんだけどどう思う?」
そんな時間があるのか?
「確かに、忙しくてソムリエ教室に通う時間なんてないよなぁ。あ、でもさ。今度の土曜日って明日だけど、シゲルが銀行の受付OLとコンパを設定してくれるんだ。金融業界は最近景気が悪いからさ、残業も少ないから暇なんだって。良かったらおまえも来ないか?とは言わないぜ。人数合わせはもう済んでいるんだ。ま、おまえはコンパとか余り好きじゃないからいいよな?」
好きじゃないというわけじゃない。
「お、そうなのか?じゃ、今度シゲルに言っておくよ。イタリアンを食べにいくんだけど、そういう時にごくさりげなくワインの知識があったりするといいと思わないか?間違っても知識をひけらかすようなことは駄目だぜ。ってこれは俺がいつもしてしまうことなんだよなぁ。でも俺って沈黙に耐えられないんだよ。なんか気まずくなちゃってさ。」
俺は軽く頷きながらハンドルを握っていた。マコトの会話は自己完結している。こいつは落語家にでもなれば良かったんだ、俺は心の中で毒づいていた。
俺は大学の正門前でマコトを降ろすと、赤木教授には後で連絡すると伝えてくれ、と言ってアストンマーチンを発進させた。
俺の狙いはアルマーニ男だった。ホテルで綾波レイを目撃した時に一緒にいたあの冴えないデブだ。
ホテルの支配人とは顔見知りだ。強引に訊けば宿泊客が誰だったかくらいは教えてくれるだろう。いざとなったらホテルの株を買い占め株主として顧客リストの提出を求めてやる、アクセルを勢いよく踏み込んだ俺は少しどうかしていた。
「お客様のプライバシーに関わることはちょっと・・・・。」
二階の特別ラウンジで俺を迎えた支配人の口は予想通り重かった。にこやかな笑顔は明らかに仕事で作られたものだ。本当は違うかもしれないが、俺はそう信じていた。
「私は警察ではありません。調べたことでどうこうしようとするほど経済的に困っているわけでもありません。ただ、その方と一緒にいた人のことで少し気になることがあったのです。直接会って話をしてみたいだけです。」
俺は強い目を作るように努力しようとしていた。目つきは悪い方だ。迫力も威圧感もでないかもしれないが、こちらの本気度くらいは伝わるだろう。
「いや、しかし・・・・、私どもといたしましては・・・・。」
この支配人は何が言いたいのだろう?
ホテルとしては顧客に関する情報を漏らすことは差し障りがあることは分かる。俺は法律に詳しくないが、刑法か商法の何条かに違反するのかもしれない。支配人ともなればその辺のことは俺より遙かに知悉しているに違いない。それなら「こういう法律に抵触するのでお話できません」と言えばいいのだ。大きなホテルともなれば、全ての業務を法律の範囲内で行っているとも思えないが。
支配人が汗を拭う度に俺の神経がささくれだった。
「どうしても確かめたいことがるのです。ホテル側にご迷惑が掛かるようなことではありません。」
「どうしてもですか?」
「はい。」
「もしお断り申し上げたらいかがなさいます?」
「別の手段を講じます。」
「別の手段とは?」
「お聞きにならない方がよろしいでしょう。」
俺は最後通告をするかのようにコーヒーカップを手に取った。ゆっくりと目を閉じ褐色液体をすする。瞼を開いた時が勝負だ。
「・・・・・分かりました。しかしお名前だけですよ。」
支配人は折れた。
俺の眼光や意志ではなく、おそらくは親父から転がり込んできた資産に。
「部屋をおとりになったのは出雲タカツグ様です。」
俺がブルーマウンテンを飲み干す間に宿泊客名簿を調べにいっていた支配人の顔は渋かった。地顔なのかもしれないが、眉間に皺が寄っている。
「出雲タカツグ?同性同名ではないですよね?」
「はい、あの出雲タカツグ様です。」
俺は一瞬頭が白くなった。
俺は驚くとき目をパチパチさせる癖があるのでなるべく瞬きしないように気を付けた。「間抜けに見えるわよ」リツコさんにそう言われたことがある。
俺の記憶ファイルにある出雲タカツグは金融界の大物だ。大蔵省金融部門のトップ・財務官を務めた後、天下りもせずにインディペント系の投資信託会社を始め、あっというまに日本有数の投資家になってしまった。
「あの人ほど財務官の異称である”金融マフィア”という言葉がしっくりくる人もいませんでした。」
知り合いの銀行幹部が半ばうっとりしながら話していたのを覚えている。俺とは何の面識もないが「Wall
Street Jearnal」で写真くらいは見たことがあった。
アルマーニかどうかは分からないがイタリアンスタイルのスーツをほれぼれとするほど見事に着こなしシャンパンを掲げていた。太っても脂ぎってもいない。あのデブのアルマーニ男とどういう関係なのだろう?
「泊まっていらしたのはご本人ですか?」
「・・・・いえ、違います。ご予約とお支払いは出雲タカツグ様名義でしたが。」
支配人はハンカチで汗を拭いていた。こんなに感情表現が素直なのによく接客業をやっていられるな?少し心配になった。
俺は椅子の背もたれから背中を離した。
右手に持っていたウエジットのカップをソーサーに置き、両指を組んでテーブルの上に載せた。柔和な迫力が出るように努力しようと思ったがやったことがないので具体的な方法は思い浮かばない。
最初に頭にイメージしたのは「ゴットファーザー」のドン・コルレオーネだ。でもうまくいかなかった。俺はドン・コルレオーネを具体的に思い浮かべられるほど「ゴットファーザー」を観てはいない。しかも複数作られているゴットファーザーの情景がごちゃごちゃになっていて、頭の中でストーリーが作れなかった。
仕方なく「アンタッチャブル」のエリオット・ネスに切り替えた。ラストの法廷のシーンで判事に陪審員の差し替えを要求するシーンだ。これなら鮮明に思い出せる。
余りふさわしくないかな?顔を険しくさせた後、俺は不安になった。
「ご子息です。実際にご宿泊されたのは出雲ヒロキ様です。」
支配人は苦渋という言葉が如実に現れた顔をしていた。
ホテルから出てアントンマーチンのハンドルを握った俺は妙に醒めていた。
思いがけないところから出雲タカツグというビックネームが出てきて半ばビビッてしまった。緋色の瞳に強迫されるようにして綾波レイの足跡を辿っていたが、出雲タカツグという俺の手には余る人間が出てきたことで冷静になったのだ。
支配人には出雲ヒロキの人相を訊いた。
支配人は精一杯美化していたが、デブなアルマーニ男が出雲ヒロキであることは間違いないようだった。少し狼狽していたところを見ると、奴がコールガールを呼ぶのはしょっちゅうで以前に何か問題を起こしているのではないかと推察できた。
会おうと思えば出雲ヒロキには会えるだろう。俺には無愛想で生真面目だが、優秀な顧問弁護士がいる。彼に頼めば出雲ヒロキとコンタクトするのは、そう難しいことではないはずだ。
俺は警察じゃない、深入りする必要もない、そう思うことにした。別に綾波レイが人殺しをしたわけではないし、俺の生活の邪魔をしているわけでもない。信濃教授が異常になったが、悩んで眠れなくなるようなことではない。
俺には関係のないことだ、心の中で三回繰り返した。語尾に後ろ髪を引かれるような思いはあった。だがその時の俺には積極的に綾波レイに関わる理由も意志もなかった。
エレベーターのドアが開き俺ははじき出されるように八階に降りた。
熱めの湯に浸かって体を温め腹に何か入れたらさっさと寝よう、そう言えば冷蔵庫にはろくなものがなかったな、デリバリのピザが寿司の出前でも頼むか、俺はそんなことばかり考えていた。
エレベーターから俺の部屋にたどり着くまでには途中角を折れた後、20mほど歩かなければならない。ワンフロアに部屋数は12ほどだったが。、一部屋一部屋がでかい。
俺の部屋は間取りだけで言えば1LDKになるが、25畳のリビングに6畳のキッチン、8畳のベットルームにやたら広い洗面所と風呂、それにベットルームと同じくらいのサンルーム付きベランダがついている。実際に見たことはないが他の部屋も似たようなものだろう。
天井も普通の家の1・5倍はあるだろう。自分一人で隅々まで掃除したら一日かかるような部屋だ。俺は週に二度、清掃業者を入れている。
昨日までならなんでもない距離だが、今日の俺には通路の距離が異様に長く感じられた。床とにらめっこするように歩いていたので、廊下に永遠回廊の魔法が掛けられていたら、俺は当分通路を彷徨ったことだろう。俺の部屋の前に一人の女が立っていることにも気が付かずに。
「先輩。」
聞き覚えのある声だった。頻度は少ないが。
余り耳障りのいい音質ではなかった。新任の女教師が説教する時に使うような声だ。
俺はうんざりとしながら徐々に視線の角度を上げた。上質とはいえないカーフのブーツ、黒いストッキングに包まれながら色気と肉感を感じさせない脚、チェックのスカート、白いタートルネックのセーター、胸の隆起を隠すように黒いウールのコートを抱えた手、最後にあどけなさを残す顔と田舎臭さを匂わせるおさげの髪。
「こんばんは、先輩。」
薄く口紅が塗られた唇が動いてもう一度説教じみた声がした。
視覚と聴覚を遮断したアイソレーションルームに数時間居ると脳が幻覚を見せることがあるが、ここはアイソレーションルームじゃない。
幻覚でないとすれば目の前にいるこの女は一体何のためにここにいるんだ?俺を更に疲れさせるためにか?それとも綾波レイが緋色の瞳でこの通路に魔法をかけていて、今の俺が最も徒労を感じるような情景を展開させているのか?
俺の思考は理路整然の対極に存在していた。
「少しお話があります。」
目の前に立つ洞木ヒカリは、俺に嫌がらせでもするかのように生真面目で思い詰めたような瞳をしていた。
「適当に座ってくれ。今飲み物でも出すから。」
俺はゼミの先輩という仮面を崩さないのに多大なる労力を消費していた。今は忙しいと叩きだそうと思ったが、洞木のようなタイプは一度決めたら容易に自分の考えを曲げない。呼び鈴を連打されたり、電話攻撃に会うのも嫌なので家に入れた。
「お構いなく。すぐにすむ話ですから。」
まるで事前に考えてきたようなセリフだ。おそらく何回もシュミレートして、いかにして俺を押さえ込むか考え込んできたのだろう。本当にご苦労な奴だ。
「いい部屋ですね。」
洞木は嫌味を言いに来たのだろうか?それに一度だけだが洞木は俺の部屋に来たことが留。泥酔したアスカと一緒に泊まっていったあの日だ。俺は振り向きもせずに紅茶の葉を簡易ポットにぶち込んだ。
「どうぞ。」
洞木はせっかくいれたダージリンに手をつけようともしなかった。それどころではない、と目が語っている。アスカの事で何か感づいたか?俺は溜息を隠すために自分のカップに口を付けた。
「実は友達が困っているんです。すごく迷惑しているんです。」
陳腐な切り出し方だ。
会話には育ちが出る。顔立ちはDNAが決めてしまうものだが、会話や歩き方といった広い意味での礼儀作法は自分で獲得するものだ。親に仕込んでもらうわけでも学校で教えてもらうわけでもない。自分を取り巻く環境を乗り切る意志のみが礼儀作法の獲得を可能にする。
洞木の話し方は「そんなことは学校で教えて貰わなかったわ」と暗に主張しているようにも聞こえた。優等生面したこの女は親からも教師からも「いい子」として扱われてきたのだろう。自分に疑問を持たない奴には、真の意味での礼儀作法の獲得はできない。
人生というものを活字にすれば誰でも本が一冊以上書けてしまうものだが、洞木の半生を題材にしたら3ページくらいで終わりそうだ。
「その友達は私にはとても大切な人なんです。」
話し合う時には用件は手短に、交渉は粘り強くが鉄則だ。例えば欧米人などはその前に用件とは関係のないことお互いの相違についてとことん話し合う。日本式に接待をして相手に気に入られようとするのではなく、お互いの価値観の相違について話を詰めた後で妥協点を見いだすというやり方だ。
歪曲な言い方で用件を伝えず、困っているなどという感情的な言葉で相手の同情を引こうとするやり方は俺にとっては最悪だ。ビジネスの世界は勿論、日常的なやり取りでも同じことだ。まどろっこしくて吐き気がする。
「話が見えないが。」
俺はフェイントを入れた。詳しい経路はまだ分からないが、洞木がアスカと俺のことを聞きつけてここにいるということは間違いなさそうだ。
俺に相談を持ちかけ、途中で「友人を不幸にしているのはあなたです」というセリフを決めて、道徳的な文句で責め立てた後、俺が罪悪感に苛まれながら改心するというのが洞木の理想とするストーリーだろう。
まあ、改心させるというのは想定にないかもしれないが、「アスカと別れて下さい」などというセリフを置いて帰ることだけは確かだ。
「その友達はすごく美人な子なんです。男の人が大挙して言い寄ってくるような。でもその子には小さい頃からずっと一緒に暮らしてきた大事な人がいて、・・・・」
俺が軽く右手をかざすと洞木は話すのを中断した。
俺はノリタケのカップをテーブルに置くまでの3秒間、目をやや細めた洞木を待たせてから口を開いた。
「で、俺にアスカと別れろと?」
洞木は3回瞬きをした。
瞼の動きで言葉の意味をかみ砕くように。
かみ砕くのが瞼なら、消化するのは涙だろうか?俺がにわか文学者の気分に浸っていると、洞木は急に立ち上がった。どうやら俺の言葉が脳まで届いたらしい。
「分かっていたんですか?!」
「驚くこともないだろう?察しはつくよ。俺と洞木の共通の知り合いといえば他にはサークルの連中くらいだ。」
「先輩って最低の人間ですね!」
「ある種そうかもね。君にとっては。」
「ふざけないで下さい!」
「無理な注文だ。20年以上染みついた性分は変えられない。」
「そういう話をしているんじゃありません!」
「かもね。」
俺の悪い癖だ。
落ち込んでいる人間、混乱している人間を見るとおちょくりたくなってしまう。俺は立ち上がったまま体を振るわせている洞木を見ながら内心ニヤリとしていた。
「アスカもそんな風に弄んでいたんですか?!」
「いや、真剣だったよ。真剣にSEXしていた。」
「か、からかわないで下さい!」
「事実だよ。俺はそんなにテクニックがあるわけじゃないから、真剣にやらないとアスカはイッてくれないんだ。洞木も鈴原を見ていれば分かるだろう?女性にエクスタシーを与えるのがどんなに大変かということは。」
「す、鈴原は、そ、そんな!」
「なんだ。鈴原は自分一人で満足して終わらせてしまうタイプなのか?それは洞木も苦労が耐えないね。」
「は、話を逸らさないで下さい!私はただ、アスカと碇君の関係をぶちこわしにするような行動は慎んで欲しいと言っているのです!」
洞木の顔はこれ以上ないくらい紅潮し、ストッキングに包まれた脚はプルプルとわなないている。
俺には洞木の真理がいまいち分からなかった。道徳観だけこんなに怒っているのだろうか?それとも俺のセリフが洞木のシュミレーションになかったから気が立っているだけなのであろうか?
「いいよ。」
俺は視線を上げて仁王立ちしている洞木と視線を合わせた。
綾波レイの捜索で随分前のことように思えるが、アスカと別れるのは今朝がた決めたことだ。いくら極上の肉体を持っているからといって心の通わないSEXは空しさを増大させるだけだ。つまみ程度に嗜むのならともかく、恒常的に続ける事じゃない。リツコさんのことを考えると気も引ける。
「はぁ?」
しばらくしてから洞木は調子外れな声を出した。音域が余りにはずれていたのでギクッとしたくらいだ。洞木自身も驚いたらしく口に手を当てている。
「今、何と言ったんですか?」
喉をゴクッと言わせてから、洞木はなんとか声を絞り出していた。
「アスカとの関係を終わりにすると言ったんだが。」
まぬけだな、俺は弁明がましい口調になって苦笑した。
「だ、だって先輩はアスカとつきあっているんでしょう?」
この女は何を言い出しているのだろう?混乱しているのは理解できるが。
「アスカとはSEXだけのつき合いだ。週に一度か二度ホテルであってそれっきり。デートらしいデートはしたことがない。」
「う、嘘です!」
何に対して嘘だと言っているのだ?
益々分からない。
自分の親友は貞操観念がしっかりしていて体だけのつき合いなどするはずがないと思いこんでいるのだろうか?疲労に包まれていた俺は心理学用の思考と脳を引っぱり出す気にもなれなかった。
「本当だって。嘘をついてどうなる?」
口から勝手に言葉がこぼれた。
俺は本当に嘘をついたらどうなるのだろう?
リアリティがあって尚かつ洞木が納得しそうな嘘といったら、アスカが悪い証券屋に騙されて多額の借金を背負い、その負債を帳消しにするために俺に抱かれている、みたいなことだろうか?
いや、待てよ。碇の親父は大学の学長をしているのだからそれなりに金持ちであるはず。一応保護者代わりでもあるようだからもう少し話を煮詰めないとリアリティがでないか?
「アスカはそんな子じゃありません!」
俺がどうでもいい嘘について考察を進めている間にも、洞木の混乱は更に深まっているようであった。
「人は誰しも色々な仮面を持っているものだよ。」
「でも、本当のアスカはそんなふしだらなことをする子じゃありません!」
「俺はアスカに関しては推定スリーサイズと性感帯くらいしか言えない。普段のアスカも本当のアスカも知らない。」
「せ、先輩がそういう人だからアスカはっ!」
洞木の瞳からは涙があふれ出していた。洞木が熱くなればなるほど、俺は反比例でもしているかのように退屈になった。
「勘違いしているようだが、誘ったのは俺じゃない。アスカだ。」
「嘘です!」
「そう思うのならアスカに確かめてみることだね。それとアスカと碇の間がおかしくなったのは、俺がアスカと関係を重ねる前のことだ。そのことに関しては俺は何ら感知していない。」
「信じられません!」
「別に洞木に信じてもらおうとは思わないよ。」
俺はわざと火に油を注いでいた。
綾波レイから受けたショックを解明できない現状にストレスを感じていて、セルフコントロール力が落ちている。洞木を故意に怒らせることによって精神的空白を埋めようとしているのだ。ただ、知っている事と実行できる事は別物である。いくら分析ができても実践に移されなければ意味がない。
「そ、そんなアスカが・・・、そんな・・・・」
洞木は糸の切れたマリオネットのようにへたりこむと泣きだした。
ストレスを他人にぶつけて喜んでいる俺と同様に洞木もどうしようもない。自分で勝手にストーリーを作って、相手がそこから外れると途端に怒りだし、思いもよらないことを知らされるとショックで泣き出す。本当に心理学を専門に勉強している人間なのだろうか、この女は?
そばにいると陰気が移ると思った俺はソファから腰を上げた。キッチン脇のドアを開けて風呂場に入る。今日は清掃業者が来ている日だったので、浴槽はピカピカに磨かれていた。俺は栓を閉めると温度を45度と少し熱めに設定してスイッチを押した。全自動センサーがついているのであとは機械がやってくれる。一定のラインまで湯が溜まったら勝手に止まり、ブザーで教えてくれる仕組みだ。
俺はドドッドドッと流れ落ちていく湯をしばらく見ていた。
洞木はもう泣きやんでいるだろうか?
湯気がうっとおしくなってきたので浴室から出た。
洞木が「帰ります」なんていう置き手紙を残していなくなっていてくれていたら有り難かったのだが、現実派甘くなかった。洞木は湯気の30倍くらいうっとおしい顔でソファに沈み込んでいた。
「私どうしたいいんでしょう?」
俺は心底ムカついてきた。
俺は疲れているんだ。部外者に近い立場のくせに勝手に首を突っ込んできた勝手に泣いて姉妹には俺に自分の行動指針を尋ねるとはどういう神経をしているんだ。セリフは喉まで出かかっていたが幸いにも口までは上がってこなかった。
「とりあえず紅茶を飲んだらどうだ?」
洞木は初めて目の前に紅茶のカップがあるのに気づいたような顔をした。俺が歩運んだ時は湯気を漂わせていた紅茶はすでに冷めている。ホットでもアイスでもない極めて不味い紅茶を洞木はゆっくりと口に運んだ。脳が麻痺すると舌も麻痺するらしい。よくぞ飲めたものだ、俺の感想にはストレスとうっとおしさが乗り移っていた。
「私とアスカが初めて会ったのは中学2年の時で・・・・」
洞木はカップの底と睨めっこしながらとつとつと話し始めた瞬間、俺は全身が痒くなってきた。昔話を喜んで聞く人間がいないのは、FAによる巨額の選手増強も実際の戦力とは余り関係がないのと同じくらい自明の理だ。
俺は聴覚がトリップするように念じて、違うことを考えて聞き流そうと努力した。
ええっと明日の予定は加賀と飯を食いに行くことくらいだったな。午前中はどうする?明日はマヤはいないはずだから人工進化研究所にでも行くか。あ、そういえば赤木教授に電話するってマコトに言付けてしまったな。さっさと洞木を追い出して風呂に入り、リツコさんの音楽的な声でも聞いて寝るか。
マコトがソムリエの資格が取りたいとか言っていたな。何を隠そう日本は世界で一番ソムリエ資格保持者が多い国だ。国際線のスチュワーデスなんてみんな持っているんじゃないかな?あとテレビ局の女子アナウンサーも大挙して取りにいったっていう話だ。まったく何を考えているのだろう?
「あれは高校2年の時でした。アスカと私は・・・・」
気がつけば洞木の話は3年ほど進んでいた。どうでもいいけど。
ピッピピィィィィ
俺の思考がワインの価格と日本の課税制度の矛盾に入り、洞木の昔話が高校時代を終えようとした頃、風呂場から電子音が聞こえてきた。
やっと来たか、救いのベル。追い出す口実ができた。
「今の音なんですか?」
「あ、あれ?湯船が一杯になった合図だ。」
洞木はキョトンとした顔をしていた。突然の電子音は脳に響きわたったらしい。あとは「今日は疲れたからささと風呂に入って寝ることにしているんだ。その話はまたあとでな」っていう具合に追い出してしまえばいい。
「そういえば私が小学校低学年、多分2年生の時・・・・」
ふざけるな!この期に及んでまだ昔話を続けるつもりか?
洞木の更なる昔話は、過敏になっていた俺の神経に何千本もの棘を打ち込んできた。
「洞木。」
俺はどす黒い声を出した。
「はい?」
「日本の裁判が前例主義なのは知っているか?」
うつむき加減に話を続けようとしていた洞木はようやく俺と目線を合わせた。何の話をしているのだろう?顔にはクエスチョンマークが張り付いていた。
「女性が自分で男性の家にあがり尚かつ飲食物を口にした後ならば、多少強引な性交渉があったとしても刑法一七七条には触れないことが多い。ただ連れ込むだけなら問題があるが、家に上がり一緒に食事をしたらそこには合意があったと見なしている判例がある。」
洞木はクエスチョンマークを更に増やしていた。
「それに裁判に持ち込むためには洞木が警察署に行って俺が一七七条に違反したことを証明しなくてはならない。日本の警察は未だに男尊女卑の通念が流れているから取り調べはきついものになる。女性警察官が担当するのが通例だが、通例が全てに適用されるとは限らない。それに俺は多額の金を持っているから警察や弁護士に多少の手を回すことだってできる。何の後ろ盾もない洞木の訴えをもみ消すなんて造作もないことだ。」
俺は口元を歪ませて見せた。イメージしたのは爬虫類のどぎつい奴だ。アナコンダが目で相手を威嚇しつつ舌をチロチロだしている場面だ。
「な、何を言っているんですか?」
「刑法一七七条の内容は知っているか?」
洞木は首を振った。顎が微かに震えていた。
「強姦罪だ。」
俺は最後通告をつけつけるかのような仕草で立ち上がった。
洞木は奥のソファに座らせてある。入り口に近い方はホスト側が座るのが普通だ。ここは8階、洞木には逃げ道がなかった。
「う、嘘ですよね?」
「ああ、一七七条は嘘だ。正確には一七七条じゃなくて一七八条の方に違反になる。ちなみに一七八条は準強制猥褻・準強姦の罪だ。人ノ心神喪失若クハ抗拒不能ニ乗し又ハ之ヲシテ心神ヲ喪失セシメ若クハ、ええっと何だっけな忘れた。ともかく薬とかで眠らせて強姦した場合が一七八条だ。」
「く、薬?」
洞木は自分の口に手を当てると顔を青ざめさせた。
「自分で最低の人間なんて呼んだ相手が出したものを素直に口にしてはいけないなぁ、洞木。」
やっぱり悪役の方がはまるな、自分の声を聞いた俺はニヤリとした。マフィアの中堅幹部くらいは務まるかもしれない。
洞木はカップを睨み付けると手の甲ではじき飛ばした。ノリタケのカップは僅かに野篭手知多ダージリンを吐き出して宙に舞い、フローリングの床に跳ね返ってキンッという音を立てた。
「ベンゾジアゼピン誘導体だ。筋肉弛緩剤の一種だよ。力が入らなくなる。そろそろ効いてくる頃だろう。大丈夫、副作用はない。それに後でちゃんと気持ちよくしてやるから。」
「い、いやぁ!」
悲鳴を上げた洞木はソファから立ち上がろうとしてバランスを崩した。無様に床に転がり体育座りが崩れたような格好になって両手をついた。後ずさりをしようとしているらしいが、清掃業者が磨いたばかりのフローリングと汗で濡れた手の平の組み合わせは後ずさりには向いてかった。
震えながら首を振る洞木は小兎以下の抵抗力しかない。猟犬と化した俺が襲いかかれば何の障害もなく喉笛を食いちぎれそうだった。
薄い黄色か。向日葵色と言ったら濃すぎるな。山吹色とは色彩が違うような気がする。フレンチレストランなんかで出てくるバニラアイスクリームと同じ色なんだけど、バニラアイスクリーム色じゃ長すぎる。春をイメージさせるようなもっとネーミングセンスに優れた色はないかな?
黒いストッキング越しに洞木の下着が見える。
脚に肉感がないだけに色気はあまりなかった。
俺はブラも同じ色なんだろうかと思いつつ首をひねった。
でもパンティストッキング越しだと黄色は汚く見えるな、どうせならガーターベルトでもしてくれればいいのに、洞木は外見が簡素だけにそういうところで意外な色気を見せれば男はコロッといっちゃうと思うんだけどなぁ、果たしてどうだろう?明日加賀にでも訊いてみるか、女に関してはあいつの方が断然詳しい。
俺は頭をかきながら身を翻すとキッチンのカウンターに置いてある電話を取った。記録してある電話番号の8を押す。
マイドアリガトウゴザイマス。コチラ、ダイサンシントウキョウタクシーデス。
「タクシーをお願いします。住所は新東京市中央区北六条2−23。第三新東京大学南門かをまっすぐ出て一つ目の交差点を左折したところです。電話番号は・・・・」
俺は電話番号と名前、カードで前払いをすることを告げた。
カードノセイモンヲチェックイタシマス。オテスウデスガ、カードノアンショウバンゴウヲヨミアゲテクダサイ。
「カードはAMEXGOLD。番号は3528 3003 0910 6012。」
タダイマセイゴウシテオリマス。シバラクオマチクダサイ。
俺は声紋照合が行われている間、頭をかきながら洞木の方を見た。
洞木は俺と視線が合うと肩を振るわせ怯えたような表情を見せる。
参ったな、やりすぎたか、でもあの程度の脅しで越が抜けるなんて体に欠陥があるんじゃないだろうか?
俺は溜息混じりに洞木の将来を心配した。声紋照合が済むまでの短い時間だけ。
「10分後にタクシーが来る。カードで前払いにしておいたからそれで家に帰れ。それから洞木が色っぽいのは分かったから脚を閉じて立ち上がってくれ。」
洞木は真っ青にしていた顔を、リトマス試験紙並みのスピードで真っ赤に変えた。困惑とおびえと怒りがミックスされたような表情を作って俺の方を見ている。
「ジョークだよ。全くちょっと演技したらコロリと騙されやがって。そんなんじゃカウンセリングはできないぞ。」
「は、はぁ?」
「は?じゃない。それからベンゾジアゼピン誘導体は向精神薬だ。確かに筋肉弛緩作用も少しはあるが、動けなくなるわけじゃない。勉強不足だな。」
「じゃ、紅茶の薬って?」
「嘘に決まってるだろ、ドアホウが。」
俺はひびの入ったノリタケのカップを拾い上げると苦虫を噛みつぶしたような表情を作った。
「ご、ごめんなさい。そのカップ私が弁償します!」
「いいから。黄色のショーツの代金だと思っておくよ。」
「で、でも!」
洞木は持ち前の生真面目さを発揮していた後、自分の下着を見られたことを思い出してまた真っ赤な顔をしていた。当分はこのネタで遊べるかもしれない。
俺は台布巾を持ってきてこぼれた紅茶を拭き、ひびの入ったカップを新聞紙でくるんでゴミ箱に入れ、紅茶の道具をしまいこんだ。俺が黙々と作業をする間、洞木はやや呆然としながら突っ立っていた。
「あ、あのアスカとのことは?・・・・・」
片づけが終わるのを待って洞木は声を掛けてきた。最後の気力を振り絞ったような声だ。さっきまで俺を怒鳴り散らしていた覇気はどこへ行ってしまったのだろう?
「別れるといっただろう。」
俺は憮然としていた。からかいすぎてよけい疲れてしまった。ただでさ、徒労感で一杯なのに。
「どうしてですか?」
「別に洞木が来たからじゃない。前から決めていたことだ。」
「で、でもどうして?」
俺が少しきつめの視線を向けると洞木はまた方を振るわせた。今度から顔を合わせる度にこういう表情をしそうだ。
「他に好きな人ができたんだよ。」
俺はまた嘘をついた。
飽きただとか、空しくなったと言ったらヒステリーが復活するかもしれない。一番納得してもらえそうな理由を選んだ。
俺がソファに寝転がって溜息をついていると、洞木は生真面目な一礼をして出ていった。
その晩の俺は何もする気が起こらなかった。
風呂からあがって体を拭くのも面倒だったし、髪をドライヤーで乾かすなんて考えることもなかった。
リツコさんに電話するのも気が引けてきてさっさとベットに入って寝た。
眠気はすぐに襲ってきた。溜息混じりの眠気のような気がした。
名前は以下略
マヤ「こんなに不潔な話を書いて恥ずかしいとは思わないんですか?!この犯罪者!」
M「なんだか言っていることが無茶苦茶ですね。」
マヤ「この話なんてヒカリちゃんをレイプしたじゃありませんか?!」
M「はい?一応ジョークというオチもついているんですけど・・・・。」
マヤ「あれは言葉のレイプです。やってはいけないことです。めぞんから出た途端犯罪炸裂した文章を書かないで!」
M「ま、貴重なご意見として参考にさせて頂きます。」
マヤ「何なのよ!その官僚答弁は?!どうせ参考にさせていただくとか言っても受け取りはするけど結局は無視するってことでしょうが!」
M「分かっているじゃないですか。(笑)」
マヤ「そもそも同性愛者を差別するなんていけないことです!」
M「それは接続詞の使い方に無理がありますね。そもそもという言い方は・・・」
マヤ「とにかく!同性愛者にだって人権はあるんですよ!」
M「僕は同性愛者が生物学的に間違っているだの、道義的に否定されるべきだなんて思っていませんよ。単に趣味が合わないだけです。ピーマンや椎茸が嫌いなのと一緒ですよ。」
マヤ「あなたピーマンも椎茸も嫌いなの?」
M「いや、全然平気ですよ。食べられないものといったらクラゲぐらいです。蛙も兎も鹿の心臓も食べたことがありますし、おいしいと思いますよ。あ、でも虫系統は食べる気になりませんが。」
マヤ「イナゴの佃煮だって立派な文化じゃないですか?文化を否定するのはあってはならないことです。」
M「食べられないからと言ってその文化を否定してるわけではありませんよ。東南アジアでは鳥の胎児を食べますが、僕は食べる気にはなれません。だからといって東南アジアの文化を否定しているわけではないですよ。自分との違いを知っているだけです。他者との違いを確認し合うことが理解の第一歩だと思いますが。日本にはなじみがありませんけど。」
マヤ「あなたわざと話を逸らしているわね?私が言いたいのは次回は私と先輩の愛を書きなさいということよ。」
M「考慮しておきます。」
マヤ「それは考えることは考えるけど、結局破棄するということ?」
M「その通りです。(笑)」