人には、誰しもこれだけは我慢できないことがある。
戦争、虐殺、汚職といった類ではなくもっと日常的なレベルでの話だ。
赤木教授は少しでも汚れのある白衣を見ると虫酸が走るらしい。黄ばんでいたり泥まみれ
なのは論外だと思うが、シミを一つでも発見すれば即新しい白衣に着替えてしまう。他人については衛生面に問題がない限りとやかくは言わない。ただ、自分自身に関しては常に真っ白な白衣をきていなければ仕事をする気にならないということだ。
人工進化研究所はふんだんにガラスと鏡を取り入れた建物である。おそらくは赤木教授が白衣の微かな汚れをチェックするために。
赤木教授ほど徹底しているわけではないが、マコトは熱愛発覚というワイドショー用語が嫌いだし、青葉さんは外国人がCMでアクセントのずれた日本語を言わされるのを聞く度に顔をしかめる。冬月教授は裏表紙のついていないレポートは受け取らない。マヤは美少女特集やミス何とかという雑誌の見出しを目にすると途端に目を三角にして怒り出す。
俺はと言えば、電話で起こされるのが耐えられない。電話の呼び出し音自体も嫌いなのだが、起き抜けということが加わると嫌悪感は憎しみにまで昇華する。
「私を見て!」「僕にかまってくれよ!」「俺を助けろ!」電話は甘ったれた叫び声をあげるガキのように思える。赤ん坊が泣き叫ぶことによって母親の注意を惹きつけるのと同じことだ。いや、電話をかけるのは幼児ではないからもっとタチが悪いかもしれない。興味もないセールスの電話だったりすると間髪入れずに切ることもある。
目覚まし時計は自分でセットするので気にならない。解除し忘れて思いがけず起こされることもあるが、間抜けな自分に苦笑するだけだ。
時々と注釈がつくなら誰かに叩き起こされるのも嫌いじゃない。目を覚ましたときに誰かが側にいるというのはいいことだ思う。
ただ、あの電子音だけは駄目だ。電話の呼び出し音はあらゆる自然界の法則に反している。一度独自に電話を調整をしてお気に入りの音楽を電子音の代わりにしたことがあったが、電話の音だと思うと以前は好きだった曲でさえ嫌気が差してきたので止めることにした。
今朝は晴れているようだった。窓の外に広がる空には雲の影すらない。電話が鳴っていたことを除けばとりとめもない朝だった。
[何時だと思っているの?さっさと起きなさい!]
受話器を取るやいなや甲高い声が飛んできた。俺は半ば呆気にとられて大欠伸をし、冬の朝特有の冷たく乾いた空気を吸い込みながら事態の理解に務めた。
「ミサトさんかぁ・・・・。」
語尾に欠伸の余韻が重なった。
[間抜けな声出してないでシャッキリしなさい。今日もいい天気よ。]
「こっちはまだ朝の7:00だよ。ニュヨークは今何時?」
[とりあえず私の目に留まっている時計は朝の7:00よ。]
「へ?と、いうことは日本に来ているの?」
[ピンポンピンポンピンポン!正解です。景品として若くて美人のお姉さんがモーニングコールをお送り致します。]
「解答より商品の発送の方が早いじゃないか。それからその商品は誇大広告だよ。美人は否定しないけど若いは・・・・」
[うっさいわね!余計なこと言わないの!]
ミサトさんは今日も元気だった。
「第三新東京市に来ているの?」
[今は第二よ。]
「仕事?」
[まあ、色々よ。たまには君の様子も見ておかないとね。]
ミサトさんは俺を君と呼ぶ。酔うとチミと発音が変わる。よそよそしいというより馬鹿にされているような気がする。
「用件は?」
[ビジネスライクな言い方ね。もう少し柔らかな口調になさいよ。]
「早朝に電話で叩き起こされたんだぜ。ビジネスか緊急の用件でなけりゃ即刻切るよ。」
[せっかちね。女に嫌われるわよ。]
「ミサトさんらしくないステレオタイプな言い方だね。人は老衰すると同じようなことばっかり言うようになる。」
[誰が老けたですって?!]
「ミサトさんとは言っていない。でも、自覚があるならそれでいいけど。」
[君は口が悪いことをもっと自覚するべきよ。だいたい君は・・・・]
ミサトさんは時々説教じみたことを言う。年に一,二回しか会わないからその時にまとめて小言を置いていく。世の中に流れている説教の99%はろくでもない内容である。ミサトさんといえどもその例には漏れない。
俺はミサトさんの説教がそれほど嫌いじゃなかった。ガキの時には説教をしてくれる大人さえいなかった。親父とは年に何回も会わなかったし、母親はさっさと病死した。
ミサトさんは説教好きというより世話焼きなだけだが、久しぶりに聞くお小言は俺にとって風邪を予防するための漢方薬のようなものだ。
[予定が立て込んでいて今週は忙しいの。来週末くらいには時間が空くからその時に三人でご飯でも食べましょう。]
三人を構成する最後の一人が誰を指すのかは明白だった。ミサトさんは四,五年前から同セリフを言っている。ただ実現したことはなかった。今回も無理だろう。最後の一人の予定は分単位で決まっているし、俺の方から積極的に会いに行く気はなかった。
「じゃ、リツコさんも連れていくことにしよう。ミサトさんとは積もる話もあるだろうから。」
[げ、それだけは止めて。お願いだから勘弁して。]
ミサトさんは本気で嫌がっているようだった。夏に会った時にはミサトさんとリツコさんが昔の恥部ばらし合戦を始めて、俺は知られざる二人の過去を知ることができた。酒の勢いとも言うが二人にとっては会う度の行事のようなものらしい。
「リツコ!あんたが同級生最後の売れ残りなんだからね。」
「私は主婦になりたいとは思わないわ。」
「結婚したからといって主婦になるわけじゃないわ。」
「最初はみんなそう言うわ。それよりミサト、いい加減酒量をわきまえた方がいいわよ。二十代前半ならともかく、三十越えて酔いつぶれた女なんて粗大ゴミ以下の扱いしかされないわ。」
「いやに現実的な言い方ね。さてはリツコそういう経験があるのね?」
「あなたと一緒にしないで。」
「私だってそんな記憶はないわ。」
「記憶がなくなるまで飲んだっていうことね。」
「どうしてそうなるのよ!」
「あなたの過去の偉業を知っているからよ。」
「それはこちらも同じ事だわ。」
二人は罵り合いを楽しんでいるように見えた。少し羨ましかった。
[リツコとはよく会っているの?]
「ま、ちょくちょくね。」
[よろしく頼むわね。]
「それは向こうに言うセリフでしょ?」
ミサトさんは電話の向こうで一通り笑った。
[じゃ、また連絡するわ。来週末は開けて置いてね。]
「努力するよ。」
[実りのない努力は駄目よ。]
ミサトさんは最後にもう一度笑って電話を切った。一度目と二度目では笑いの種類が違う。その差を感じ取るのは心理学のレベルではなく経験のレベルだ。俺にはまだミサトさんのような笑い分けはできなかった。
冬月ゼミは毎週二回、火曜日と金曜日に開かれる。内容がハードなことに関しては心理学科はおろか文系学部の中でもトップクラスであり、希望者はそれを覚悟してくる者に限られた。
毎回のように出されるレポート、ハイレベルな講義内容、難解な試験、シビアな成績考査。冬月教授は温厚な顔をしていてもやることは危険だ。頭部の白髪が乗り移ったような静かな口調で話しながら学生を困らせる。
俺は大学入学当初は”勉強しなくてはならない”という強迫観念に駆られて、ゼミ志望欄に冬月ゼミと書き込んだ。大学二年までは奨学金を貰っていたせいもあったのかもしれない。妾腹の子でまともな家庭環境も金もなかった当時の俺は憂さ晴らしでもするかのように勉強していた。
ミサトさんからの電話で叩き起こされた俺は何だか家でゆっくりしているのが後ろめたくなって研究室に行くことにした。冬月教授もいないし、差し迫った研究課題もない。
目的がないのだから研究室に行っても仕方のないことろなのだが、どうも俺はミサトさんに説教まがいの言葉を食らうと瞬間的に強迫観念に駆られてしまう。
強迫観念といっても、自宅マンションと人文学部心理学科棟の間にある200m程の道を歩いただけで失くなるくらい軽いものだ。案の定、研究室のドアを開けゼミ宛ての郵便物とメールをチェックし終わった頃には、やることがなくなって溜息を吐く始末になった。
「やばい。リツコさんに電話するの忘れてた。」
K・シュナイダーの「精神病質人格」と窓を開ければ届くところにある枯葉を交互に見ていた俺は唐突に思い出した。誰かが側にいるわけではなかったが一応頭をかいた。自分自身に良いわけをするかのように。
綾波レイ、洞木ヒカリ、葛城ミサト。
容姿も性格も境遇もバラバラな三人はそれぞれの方法で俺を攪乱してくれる。
[はい、赤木です。]
コール2回で電子音は消えた。電話の呼び出し音だけではなく、コール音も嫌いな俺にとっては有り難いことだ。
俺は少し迷っていた。赤木教授用の電話にかけるか、リツコさん用の電話にかけるかということで。結局赤木教授の電話番号をダイヤルした。
「教授。おはようございます。」
[なんだ、あなたなの。昨日は電話してくれると思っていたのに。]
リツコさんのような口調だった。
「色々と忙しかったんですよ。その内話します。」
[言い逃れは許さないわよ。]
白衣にシミでも発見したのであろうか?口調は完全にリツコさんで、声は尖っていた。
「じゃ、今日の昼休み。」
[お昼?今日は昼休みないの。これから生物工学科に行って実験をしなくちゃいけないから。忙しくて時間ないわ。]
「どのくらい忙しいの?」
[あなたとランチが一緒に取れないくらい。]
こういう時には何と返すのが正しいのだろう?
俺は大脳から気の利いたセリフを引っぱり出そうとしたが見つからなかった。映画やドラマでもっとストックを増やしておくんだった。何事もそうだが、気づいたときには手遅れになっている。
「実験は今日いっぱいかかるの?」
俺は2秒ほど頭の中を検索した後諦めた。
[昼過ぎには終わるわ。順調にいけば2:00頃かしら。]
「他に予定は?」
[ないわ。今日はその実験をしたら終わり。]
気の利いたセリフを言うことを断念した俺の脳は、今度は気の利いた場所探しを始めていた。天気に恵まれた冬の昼下がりに会うのにふさわしい場所。オープンカフェもいいが、やっぱり寒い。ランチタイムは終わっているだろうから店も限られてくる。ホテルのラウンジは時間的に早すぎる。
「3:00にmacedoineで」
俺は頭の中で事前に一回発音した後、マセドゥワヌという店の名前を口にした。女性物しか売っていないデパートの裏通りに半年くらい前オープンしたカフェだ。買い物のついでとか待ち合わせで結構利用する。
macedoineとは賽の目に切った野菜や果物を混ぜ合わせたサラダのことを言うが、寄せ集め、ごたまぜという意味もある。店の名前を考えた奴は日本人を小馬鹿にしているか、変わった趣味の持ち主のどちらか、あるいはその両方かもしれない。
[じゃ、切るわね。ソシュールが逃げちゃうから。]
リツコさんは最後に俺には理解できないことを言った。
ソシュールが言語哲学者であることは分かっていたが、思考はそこでパッタリと止まった。赤木教授とリツコさんが重なり合うと、時々訳の分からない言葉がでてくる。彼女自身にも言葉での説明は難しいらしい。イメージが介在したやり取りはしばしば言語の範疇を越える。ソシュールが示唆していることはさっぱり分からなかったし、それは理解できなくてもいい事だった。
腕時計の針は10:15を指している。家に帰って着替える時間を入れてもあと四時間は潰さなくてならない。俺は読みかけだったフロムの「自由からの逃走」を冬月教授の書庫から引っぱり出した。
最近に限ったことではないが、ファシズムというのは俺を常に魅了するテーマである。ファシズム分析の記念碑的著作である「自由からの逃走」はもう一度読み直さないとならないと思っていた本だ。
積極的に時間を潰すには「精神病質人格」より「自由からの逃走」の方が適していると思った。理由は見つからなかったけど。
時計は3:00をやや回っていた。フロムの「自由からの逃走」は暇つぶしに選んだ割には俺を惹きつけた。ファシズムとはそういうものなのかもしれない。
macedoineはオープンカフェになっている部分とそうでない部分が1:3の割合で存在する。突然思いついたことだが、店舗の25%がオープンカフェであることに大きな意味があるような気がした。
俺は頭の中で「ニジュウゴパーセント、ニジュウゴパーセント」とお経のように反芻させながら店内に入った。外にはリツコさんはいなかった。マフラーをスタイリッシュに巻きすぎて窮屈そうなカップルが1組いただけだ。
「早かったわね。」
リツコさんは一番奥のテーブルでエスプレッソを飲んでいた。エスプレッソ用の一回り小さなカップの横にはパンくずが散らばった大きめの皿がある。
「何をオーダーしたんですか?」
「ホールホーストブレッドトースト・ウィズ・チャイフズ&クリスプオールドファッションドベーコン・ウィズ・ビッブレタス・ウィズ・トマト・ウィズ・・・・・」
リツコさんは歌うように言った後、少し笑いエスプレッソに口を付けた。
やんわりとした拒絶だった。
「元来、食べることというのは卑しいことじゃないかと思うのよ。性欲というのが人類という種全体の問題であるのに対して、食欲というのは個人の存続のみを目的とするエゴイステゥックな欲求にすぎないわけでしょ?もしどこかの遺伝子構造が少しずれていたら、人前で食事をすることはタブーで、人前でSEXをすることはタブーじゃなかったかもしれないわ。」
懐石料理を食べに行った時、リツコさんはそんなことを言っていた。
その点懐石は食べることに恥じらいを持った料理だ、一つ一つの量を少なくして一口で食べられるようにしてあるのは、その現れだ、と付け加えていた。
「アールグレイをストレートで。」
俺は注文を取りに来たウェトレスにそう告げた。リツコさんはエスプレッソをもう一杯オーダーした。
macedoineは昼間はカフェレストランだが、冒頭に”普通の”という文字はつかない。”ごたまぜ”という店名を律儀に守ってメニューに節操はないし、ややこしいものが多い。
例えばリツコさんが頼んだサンドイッチにはこれといったメニューはない。その日用意されたパン、具、調味料の中から好みにあった物をオーダーするのだが、これがなかなか難しい。一応BLTサンドイッチとかハムサンドイッチと言えば作ってくれないこともないのだが、ベーコンは種類だけでも四つ、焼き方で三つ、計十二種類のベーコンがある。
水曜日には極上の手打ち蕎麦を出すというし、夏にはかき氷、冬には焼き芋がメニューに並ぶ。料理人はさぞかし大変だろうと思っていたら曜日によって変わるらしい。ちなみに水曜日に蕎麦を打つ男は普段は長距離トラックの運転手ということだ。
macedoineは夜になるとビアレストランへと変貌を遂げる。7:00になると客は叩き出され模様替えが済む8:00まで入店は許されない。勿論8:00以降も”普通の”という文字とは縁がない。
基本となるのは英国調のパブで、最初だけ席案内ついでに注文をとってくれるがその後はセルフサービスが基本。ウェトレスは昼間と同一人物とは思えないくらい愛想がない。カウンターと自分の席を往復する気がある人間だけが客になりうる。
店が衣替えすると「Campaign for real ale」という看板が掛かる。大手ビール会社が作るマスプロビールに嫌気が差した偏屈な連中が1971年に始めた運動だ。人工的な殺菌、濾過、冷却、炭酸注入などをしないナチュラルな作られるリアルエールはこの店独自のものだ。
ビター、ペールエール、スタウト、ストロングエールと四種類のリアルエールが置いてある。イギリスのエールは生ぬるいことが多いが、ここのは少しだけ冷やしていた。
エールではないビールも充実しているがこれがまた難解だ。メニューは一見するとワインリストのようでもある。
一番上に載っているのはチェコのPilsner Urquell(ピルズナー・ウルケル)というビール好きは知っているが一般人はまるで聞いたことがないという銘柄だ。その下には救いの手を出すようにBudweiserという文字が見えるがこれは店側の陰謀である。「バドワイザー下さい」と頼んでも「当店にはございません」と返される。
よく見るとBudweiser Budvarと書いてある。読み方はブドワイゼ バドワーだ。こいつもチェコビールで、世界一有名なあの銘柄とは完全な別物だ。知名度の広い名前にあやかったわけではなく、こちらが本家本元のBudweiserである。十九世紀末にラガーの製法を学ぶためにヨーロッパを訪れていたアドルフス・ブッシュというアメリカ人が、ブドワイゼと呼ばれていたビールにインスピレーションを得て商標登録してしまっただけの話だ。
チェコビールの次に登場するのはベルギービールで、オランダ、ドイツ、アメリカの順に銘柄が並んでいる。当然の事ながらオランダの欄にハイネケンはなく、アメリカの欄にミラーやクアーズは見あたらない。
夏にミサトさんとリツコさんと飲んだのもこの店だ。ミサトさんは酒豪でビール好きなのでこの店にしたのだが「エビスがない」と早々に愚痴をこぼされた。
その時、リツコさんはデリリウム・トレメンスというベルギービールを頼み、意味ありげに笑った。ミサトさんはまるで知らないようであったが、デリリウム・トレメンスというのはアルコール中毒症患者の幻覚症状のことだ。ラベルに描かれたピンクの象というのは中毒者が度々見る幻覚だとこっそり教えてくれた。
こっそり皮肉を言っているリツコさんもリツコさんだが、デリリウム・トレメンスなんていう名前を銘柄にしてしまうベルギー人は何を考えているのだろう?
「出雲タカツグって知っているよね?」
俺は多少迷った挙げ句、そういう切り出し方をした。二十数年生きてきてもまともなビジネスの経験がないので直裁的な言い方しかできないのだ。言葉が口から出ていった後に少し自己嫌悪に襲われた。
「投資家よね、確か。あなたの方が詳しいんじゃないの?」
「比較の対象でいえばそうなんだけど面識はないよ。」
リツコさんは二杯目のエスプレッソのカップから唇を離すと脚を組み替えた。脚を組み替えるというのは一つのサインだ。この場合は話を促しているのだろう。
俺はホテルでの支配人とのやり取りを話した。口調がトーンダウンするのを意識的に押さえなければならなかった。出雲タカツグという巨大な、少なくともそう思える、壁にぶち当たり気力が減退していた。
「出雲ヒロキを探す気はあるの?」
俺は顎を左右に動かした。
首を振ろうとしたのだが、首の関節はお守りを付けられたように固かった。
「綾波レイはもう一度来ると思う?」
俺が最後にそう聞くと、リツコさんは静かに首を振った。
吐く息の全てが溜息になる。俺は溜息の塊が降下するのに会わせるようにして目線を落とした。
「なぜそんなに悔しそうな顔をしているの?」
俺はアールグレイを意味もなくかき回していた。砂糖も入れていないので全く意味はない。
「悔しそうな顔?」
「私にはそういう風にしか解釈できないけど?今のあなたの顔は。」
俺は気がつかない間に下唇を噛み、眉間に皺を寄せていた。顔を上げると、リツコさんは、化粧を直してくるわ、と言って席を立った。
再び視線を落とすとアールグレイがカップの中で小さな渦を作っていた。俺は透き通った紅茶の面に映った自分の顔を凝視した。直径3cmほどの螺旋に引き込まれてしまいそうなくらい情けない顔だと思った。
いつものことだが、リツコさんに指摘されると「そうだったのか」と思いこんでしまう。俺は悔しさの過程と元凶について考え込んだ。
「神秘主義だと思うんだ。」
リツコさんが戻ってくるまでの間、俺の脳はフル回転していたが明確な答えは出せていないままだ。混乱にはますます拍車がかかっている。整理するのも面倒になった俺は精神科医に告白する患者の役を演じようとしていた。
「綾波レイに関して詳しく知っているわけではないんだけど、彼女に神秘主義の匂いを感じたんだ。リツコさんには何度か話したことがあったと思うけど、俺は神秘主義が嫌いなんだ。俺はリツコさんみたいに整然とやっているわけではないけど、心理学という一つの根拠に基づいて、世界を自分なりに解釈するというのをやってみたいんだ。勿論、心理学という根拠が絶対的でないのも分かっているし、一貫性の追求の不可能性についてはそれなりにわかっているんだけどさ。”若いときは根拠とか一貫したシステムとかを振り回す奴が多いけど、世の中はそう単純な物ではなくて、多様な価値観が浸透し合って成り立っている、それをあるがまま受け止めるのが成熟した大人だというものだよ”なんてほざく人間にはなりたくないんだ。ルーズな相対主義とでも言うのかな?そういう人間は多分、物事を突き詰めるのに疲れて、もしくは疲れる前に放棄して逃げ出してしまっただけだと思うんだ。これは俺が働かなくても生活していける境遇にあるからこそ言える甘ったれた論理でもあるんだけど。」
「働いていても物事の本質を突き詰めることはできるわ。ただ突き詰めるというのは自分を追い込むことでもあるからパワーが必要ね。日々の糧を得ることに四苦八苦している人間には意識的にやることは無理かもしれないわね。」
「俺はまともに働いた経験がないから、基本的に社会人にコンプレックス持っているんだよね。ま、それは置いておくとして、本質って突き詰める程分からなくなると思う。ほら、リツコさんいつか言っていたよね、”根拠や一貫性を極限まで追求すると、根拠だの一貫性が成り立たないようなカオス状態にならざるを得ないというパラドクスが存在する”って。俺はそういうパラドクスを体験する域までは全然達していないんだけど、突き詰めてみたい気がする。そういう時に神秘主義っていうのはすごく目障りなんだよ。カオス状態とパラドクスを説明するのに神秘主義を持って来ちゃうと全部片づいてしまうだろ?」
俺は息が切れたのでアールグレイを口に含んだ。リツコさんがこの程度のことで困惑しているとは思わなかったが、エクスキューズを求めるように目線を合わせた。リツコさんは軽く頷いた。
「心理学は意識と無意識を問題にしているわけだけど、意識がどこにあるのかっていう根本が全く解明されていないわけでしょ?西洋では意識を問題にすると必ず神学論争を覚悟しなければならないから意識的に避けて通っていることも多いわけだし。例えば動物実験では麻酔を使わないと論文を受け付けてもらえないという話があるだろう?でも動物に意識があるとする立場を明確にするとキリスト教勢力から猛反撃を受けて研究が続けられなくなった友人がいるって前にリツコさんも言っていたよね。」
俺はもう一度アールグレイを飲んだ。話が逸れていく感じがした。今の俺には、混乱を沈めるにはこれくらいしか方法がない。
「で、意識がどこにあるかっていう話だけど、意識障害のある人って脳のある箇所、って正確にはどの箇所だか忘れたけど」
「大きく二つあるわね。脳幹に圧迫又は出血などの障害が出た場合、もう一つは脳全体、特に大脳半球が広く障害を受けている場合よ。ヒトは意識を保つのに脳幹網様体と皮質が最低限必要だと言われているわ。」
「そうそう、でも意識が脳幹や皮質にあるかと言われれば答えはNO。じゃあ体の他の部分かにあるのかと言ってもNO。勿論外部にはないわけだよね。脳は脳のことしか知らないし、脳が脳のことを考える機能を意識と言ってしまえば収まりがつくようにも思えるけど、俺はいまいち納得ができない。意識って社会的な物だと言われているよね、今は。社会的というからには、ある種現実空間とは違う位相というか、領域を必要とするものでしょ?現実を越えた領域、つまりは神秘主義の領域っていうことになる。意識が超越論的で神秘主義の領域だっていうことは昔から言われてきたことだけど、今はそれが社会的と言われるようになっただけで何一つ明らかになっていないと思う。今俺は、社会的な諸理論をつかって何とか意識という命題をカオス状態とパラドクスが並立するところまで突き詰めたいと密かに思っているわけなんだけど、そんな時に神秘主義は邪魔なんだ。ニューサイエンスとか神秘主義を声高に叫ぶ連中が嫌いっていうこともあるんだけどさ。」
「それで綾波レイのことを避けているのね。私は波動学を引用してあなたの神秘体験とも言えることに説明を加えたけど、あなたは納得していない。信濃教授が光りとかジャンヌ・ダルクとか口走って強迫神経症に追い込まれたことで、あなたはますます綾波レイに神秘主義の匂いを嗅いでいる。出雲タカツグという綾波レイから遠ざかる理由を見つけてきたわけだけど、内心そのことに欺瞞を感じてあんな顔を作るに至るわけね。」
「欺瞞を感じてとかそういうところはよくわからないけど。でも何だかストレスがたまちゃってね。」
リツコさんは軽く俺の頭をこづいた。
俺を悩ませていた石が一つ落ちていくような気がした。
「この後の予定は?」
「あ、7:00から加賀と飯を食いに行く予定なんだけど。」
リツコさんは一回瞬きを入れると尖った顎に人差し指を当てた。マニュキュアが適度に施されたナチュラルで清楚な手元は俺の最も好きな部位だ。リングはしていないがブレスレットをしている。イヤリングは去年の誕生日に俺が送ったサファイヤ。俺は貴金属が高価なのは市場の原理のみに依存していると思っているのだが、リツコさんに見合う物と言えばかなり限られてくる。俺はリツコさんがデート仕様でいることに初めて気がついた。赤木教授の時にはシンプルなイヤリング以外身につけることはない。
「リツコさんも一緒に来てくれると嬉しいんだけど。」
加賀とリツコさんはまるで釣り合わないようだが、不思議と当人達に嫌悪感はないようだ。加賀は初対面の時、かなり酔っぱらっていたので「変な金髪」というタブーにも似たことを言って俺を冷や冷やさせた。リツコさんは一瞬だけ驚いた顔になると苦笑して「私もそう思うわ」と返した。加賀はそれ以降リツコさんの髪について触れたことはない。
「ご一緒させてもらうわ。」
リツコさんは綺麗な笑顔を作った。
俺は少しだけ救われた気分になった。
綾波レイや神秘主義はどこかに吹っ飛んだ。その瞬間だけは。
名前は以下略
ミサト「砂漠谷という人がこの作品のアンチテーゼ的なものを書くらしいわね。」
M「そうらしいですね。」
ミサト「そっけないわね。先行公開編には”PERSONAに捧ぐ”なんて表題があったわよ。」
M「らしいですね。」
ミサト「興味ないの?」
M「ですね。(笑)」
ミサト「前から思っていたんだけど君は自分以外のものに興味ないでしょ?」
M「そうかもしれませんね。でも僕は基本的に人間は空っぽだと考えているんです。だから自分といっても僕の周りの人間や関係性を持つものには興味ありますよ。あと、興味なくてもどうしようもなく惹きつけられるというものもありますし。ただ、砂漠谷さんが書いた先行公開編を読んでもあまり響くものがなかったんですよ。嫌っているとか否定しているとかじゃなくてね。興味ないとも少し違う。何と言ったらいいのかな?」
ミサト「趣味が合わないということ?」
M「趣味が合わないわけでもないと思うんだけどなぁ。そうじゃなくて考え方と考える対象に多少のズレがあるから、今の自分との関係性が薄いとでもいうんでしょうか。」
ミサト「でもUPされたら必ず読むでしょう?」
M「それは確実に。」
ミサト「先行公開編でPERSONAについて色々触れているわね。あれについては何か言うことはないの?」
M「言うことねぇ、まあないこともないんだけど。一つはあれは砂漠谷さんなりの解釈であって”MEGURUさんはこう考えているが”という部分で、”僕はそう思っていない”という箇所もありますね。ただ、”ああそうだったのかな?”と思う箇所と”詳しく話し合ったわけではないからどうとも言えない”という箇所も混在しています。どちらかといえば最後の”どうとも言えない”箇所が多いですね。」
ミサト「もう少し具体的に言いなさいよ。」
M「例えばカルヴァドスに関する点。砂漠谷さんはカルヴァドスは安い酒と思っているみたいだけどペイ・ドージュ産の年代物はコニャックに負けない値段なんですよ。三年前ノルマンディーに行った時に買った年代不詳を表すオル・ダージュ物は三万円ほどしました。カルヴァドスが安い酒だと思われているのは映画「凱旋門」のせいだとい話を聞いたことがあるんですが、僕はその映画を見たわけではないのでわかりませんけど。実際パリのクリヨンに泊まる機会が一度だけあって、その時にカルヴァドスの年代物が部屋にありました。」
ミサト「他には?」
M「これは詳しく触れられていなかたったので分からないんですけど”マスターベーションとセックスの区別がつかない”という部分。これは違うぞというより読者全般にどうちがうか聞いてみたいことですよね。」
ミサト「君自身はどう思っているの?」
M「まず実例を出そうと思います。これはサル学の第一人者河合雅雄が芋洗いのサルで有名な幸島のレポートの一部なんですけどね。サルのリーダーは普通四,五年で交代するんだけど幸島は群が一つだったのとリーダーが優れていたことで十数年に渡ってリーダーの交代が起こらなかったそうです。そうしたら一番リーダー、二番リーダー、サブリーダーの三頭のオスがインポになってメスが性的に挑発すると逃げていってマスターベーション始めたらしいんです。」
ミサト「悲惨な光景ね・・・・。」
M「ま、悲惨ですね。サルの群ではリーダーが全てのメスを独占しますよね。でもそのリーダーは長きに渡ってメスを独占しすぎてメスと親しくなりすぎてしまったらしいんです。セックズと攻撃性が裏表で切り離せないことは多くの人が指摘していることなんですけど、親しくなりすぎると攻撃性を押さえてしまうらしいんです。それでもホルモンの働きによって性衝動は起こるから結局マスターベーションに。」
ミサト「話が逸れていない?」
M「そうですかね?そもそもセックスとマスターベーションの違いって深く考えたことがなかったんですよ。フロイト説はざっと読んだだけでしたし。あ、それから相手の女性がいないからっていう馬鹿は考慮外にしてあります。最後に”レヴィ・ストロースが構造主義を唱えた時にインセントタブーが”という点なんですけど・・・・」
ミサト「ストップ!」
M「はい?」
ミサト「後書きが長すぎるわ。次回に回しなさい。」
M「分かりました。(笑)」