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(ろぐ192)


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ここはわたくしフランソワが逃げた兄に代わり仕切っていた(過去形)掲示板ですわ。
大体何でも好きに書き込んで下さって構いませんわ。わたくしが気に入らない書き込みはプチ消しますけれどもね。ぷん。


【名  前】一握の灰
【タイトル】SF
  10/09 09:46
Mail:
URL:
【メッセージ】
自然科学の法則や理論を踏まえた虚構の物語を指し、元来は十九世紀風な科学の進歩への楽天的な信仰に随伴しがちだったろうが、物質文明がもたらす人間性の剥奪、自然破壊に対する認識や、その欠陥を認識しながらもその力に導かれる人間の未来の悲劇的な予測が、近年の製作では動機となっていることがむしろ多いだろう。物語の時間空間を未来に設定することがおおよそ通例だから、普通の現代小説よりも非現実性を増し、失敗すればたわいのない夢物語に終わってしまうが、非現実的な枠組みであるだけ、より自由かつ大胆に、人間についての省察観想を盛り込むことも可能になり、鋭く文明批判的な視座を、作品のうちに定着しうる利点を持つ。

SFといえば自然科学の法則や理論をふんだんに用いたものだという認識があるだろうが、自然科学の法則や理論に拘泥する人間は逆にSFを堪能することは出来ないだろう。むしろ、わたしは物質還元主義が蔓延した未来もしくは文明が消滅してしまった世界などの中で、人間についてのさまざまな省察観想を盛り込むことで、より人間の本質を指し示そうとするもの、それこそがSFであると考える。

つまるところ自己啓発によって終劇となった「新世紀エヴァンゲリオン」もまた手塚治虫や石森章太郎、富野由悠季や松本零司、宮崎駿など多くの創作家たちが、手がけてきたものと同じSFに他ならないのだ。異化効果をもって「新世紀エヴァンゲリオン」はそれらの作品と一線を画すが、それは先駆者たちの下地があってのことであって、単体では成立しなかったであろうし、同時にその異化効果をもって「ブレンパワード」であるとか「ガサラキ」がより魅力的にみることができるということも無視できるものではない。

けびんさんへの返信は特にない。
わたしとけびんさんでは方向性がまるで正反対であるし、あの作品はあれで個性的でよいと思うから。


【名  前】けびん
【タイトル】くわたろさんへのレス。
  10/08 21:57
Mail: itirokai@gol.com
URL:
【メッセージ】

はじめまして、くわたろさん。けびんです。

論述だけでなく、わざわざ作品の感想の方もお聞かせいただき、
ありがとうございました。
正直、ここまで一人よがりな論文を見せられたら、皆引いてしまうかな…と
思っていたので、反応してくれたヒトがいたのが、嬉しい限りです。(^^;

では、さっそく、くわたろさんの感想と、論述の御質問に対してレスをば。

(1)作品の感想

>《単語について》

三人称の部分で、価値判断の濃厚な単語(美しい、ピュア、e.t.c)がヒトによっては
鼻につく…ということですか。
う〜ん。すいません。今一つ感覚的に分からないです。(汗)
スーパーシンジを描く時に「どうだ、シンジはこんなにすごいんだぞぉ~。」
って、文章全体で強調される作品が、シンジにシンクロできない人間にとって、何となく
鼻につく…というのなら感覚的に分からないでもないのですが。
それとは別に、似たような単語が連続するのは(“真剣な表情”とか)一重に、作者の
表現力(ボキャブラリ)の貧困さに起因するモノですが、関連性があるのかしら。
う〜む。(意味不明なレスで、すまないです。m(__)m)

>《キャラクターについて》

マヤに関して、最後ギャグに走らせたのは、LAS人の非難を回避する…という、やや
姑息な小細工です。
シンジに関しては…シンジ属性のない読者には、相変わらず“受け”が悪いみたいですね。
鋭い…と思ったのは冬月に関する指摘ですね。
そういえば、くわたろさんは“主役より、画面に見えない脇役の行動が気になる”みたい
なことを、どこかで主張されていたような気がしましたが、その辺りですかね。

>《ストーリー:後章》

サエコのエピソードを誉めてもらえたのは個人的に嬉しかったです。
エヴァオリジナルのバックボーンを持たない、オリキャラにどれだけ感情移入してもら
えるかで作者の力量が問われると思っているので。

>《ストーリー:後章の学園部分》

一時的とはいえ学園を舞台にしたのは、かなり個人的な拘りに近いですね。
「ある神話」のシンジ(またでたと苦笑されると思いますが)は10年も刑務所に
放り込まれて、政府に不当に彼の青春を奪われたので、せめて自作では人並みの学校生活
をシンジやアスカにおくらせたい…と思って、練った設定でしたがエピソードとしては
今一つでしたかね。
このように、自作の設定は軒並み「ある神話」から影響を受けています。
シンジをレストランでチェロを弾かせた設定だって、「ある神話」のシンジが刑務所
で腱を切られてしまって、二度とチェロが弾けなくなったのが悔しくしょうがなかった
ので、自作でチェリストとしてのシンジの可能性を最大限に表現してみたかった…とい
うだけの理由でしたし。(苦笑)

>《文章全般から受けた印象》

一球入魂の全力投球は、物書き…としての技量の無さを補う為にどうしても必須なので、
譲れないところですが、緩急というかめりはりは確かに必要かもしれないですね。
(それは手を抜くのとは決して違いますし。)検討してみます。

>《批評のフリも止めて余計なお世話的感想》

「演出に恵まれなかった良い脚本」ですか。(ふむふむ)
上と似たようなことを主張した読者のヒトもいます。(笑)
確か、
「ストーリーは素晴らしいのですが、文章が、単純な完了形がつらつらと並べている
だけで、中学生が落書きしたみたいに下手ですね。
プロットだけ他の人に渡して、もっと文章がうまいヒトに書いてもらったらどうですか。」
みたいな。(苦笑)
基本的に、ネット世界の作者のヒトは、『自分は下手だけど、あなたは上手ですね。』と、
お互いに謙遜しあう傾向があるみたいですが(さすがに総合だと話しは別ですが)
読者は本当に自分の読みたいモノの欲望に正直だな…と感じた瞬間でした。

まぁ、当たり前の話しですが、読者にも読みたいモノがあるように、作者にも絶対に
譲れない書きたいモノ(それが正しいか間違っているかは別として)があります。
もし、それがぶつかり合った場合は、僕の場合は100%作者個人の事情の方を優先します。
(といよりそれが許されないようなら、ボランティアで無償で作品を書く意味がない。)
ただ、ここなら妥協できる…と思った地点に関しては、読者の意見を取入れるケースも
たまにあるので、(具体的には、11話のスーパーシンジのバランス値の調整とか、
後書きをミスリードから、フォロー方向に変更したこととか)その点、言いたい事が
あれば、じゃんじゃんお願いします。
(採用するしないは別として(作品に対する絶対基準はあくまで僕の中だけに存在
するので)真剣に提出された意見に対しては、真摯に検討させてもらいます。)
 

(2)論述について。

冬月から感じる違和感に関しては、まさにその通りですが、妥協した…というのは、
ちょっとニュアンスが違います。
(学園もまた、自分が書きたいテーマでありましたし(失敗したけど))
正直、言うと僕はシンジやアスカが政治的暴力とか社会的軋轢とかに無理やり捲き込まれて
苦しみ続けるお話しを読んでも全然カタルシスが感じれないタイプなんですよ。
(相当保守的な性格なモノで…。まぁ、人生は自分の思い通りにならないコトの方が多い
から、それが世の中の本質なんだ…と言われたら反論できませんけど。)
だから、「政治的暴力」や「社会的軋轢」とかには、あくまでEOEを出典とする以上、
必要だから、ボロが出ない範囲で書き上げただけで、上記の設定を濃くすることに、
少なくとも僕には意義が全然感じられない。
ついでにいうなら、そういうお話はEOEを出典とするなら、多くのヒトがやっている
テーマで、他人のテーマをなぞることにはあまり興味がない。
だから僕としては、政治的暴力みたいな“詰まらないモノ”(敢えてそう明言します)
にシンジを関わらせずに、“碇シンジ”のプロパティをイカサマ抜きでどこまで伸ばせる
かにチャレンジすることが、自分が極めたいと思っているテーマですね。
なので、「EOEの続編と名乗る以上、シンジは政治的暴力に一生縛られ続けるお話でなけ
れば、EOEの続編とは認めない」…というヒトがいたら、正直『他を当たって下さい。』
としかいいようがないんですよね。(求めているテーマが根本的に違っているので)

くわたろさんは、
>どんなに舞台設定や世界観が性善説的だったり日常性が強かったりしても重厚な
>作品はあります。
と主張しているわけなので、単純に『政治的暴力』の描写の“甘さ”のみを言って
いるわけじゃなく、純粋に作品のバックボーンとなる“舞台背景”そのものが、“薄い”
と感じられたわけでしょうから、確かにキャラ優先で書いているだけにその辺りに
ついては切磋琢磨する必要がありそうです。

あと、
“舞台設定に登場人物は従属する”
この意見には私的には肯定できないです。
まず、“キャラクターありき“
主軸はあくまでシンジ(とアスカ)というキャラであり、その次にやってくるのが
“世界観”(舞台設定)だったのが、僕がオリジナルのエヴァに残っている興味なので、
その優先順位が変わることは無いと思います。
まぁ、舞台設定が貧弱だから、キャラも生きてこない…という主張であれば、大いに
頷けることろではありますので、精進せねば…とは思いますが。

ところで
>甘い世界の話だからダメというのではなく、けびんさんのスタイル(モノローグの多用と
>か主観の強い単語の選択というのがそうだと思ってます)というのは語り過ぎるあまり、
>語られるものにだけピンポイントに焦点が合って、全体がかえってぼやけてしまってるん
>です、私にとっては。だから見えない。だから薄い。

これは、やっぱり幾人かのヒトが自作の短所として指摘していただけた、
『直接(心理)描写が多すぎて、辛い…。』という主張と同じですか。
だとしたら正直考え中です。
少し実験的に、直接心理描写が多かった回の作品を、心理描写を50%に削って、情景描写
で表現するように手直しして、自分で読んでみたら、正直あまり面白くなかった…。(汗)
で、(心理描写)をモトに戻して読んで見ると、これがけっこう面白い。(苦笑)
(どうも、読者としての自分の嗜好は、“濃い直接心理描写”が好みのようなので(汗))
正直、素のバージョンの出来を100点とするなら、心理描写を削ったバージョンの、
を読んで、自分が面白いと感じた度合いを点数に直すと大体60点ぐらいです。
で、自分はネットに作品を公開する時は、少なくとも自分が読んで見て
“うん、これは面白い。気に入った。”と感じた作品しか公開したくないです。
自分と感性の異なる他人が読んで、“詰まらない”と思われるのはこれはしょうがない
ですが、少なくとも自分が読んで“詰まらない”と感じるような作品を、自分の世界として
他人に公開したくない。
実際、自分が作品から感じた出来具合と、読者の反応は完全に正比例しているので、
(例えば自分が「うん、これは傑作だ。」と思った回(例えば12話や14話)や、
「今回は今一つだな。」(それでも最低限度の質は満たしたつもりですが)と思った回
(13話、15話、外伝の中編など)を、執筆中のリアルタイムの読者の反応で確認すると、
メールの数、読者の満足度が完全に自分が作品から感じた満足度に比例しているんですよね。
(勿論、メールをくれる読者はもともと自分と似た嗜好の所有者がほとんだ…ということも
ありますが。)

で、ちょっと、作者としてのスタンスについて、お聞きしたいことがあります。
例えば、自分(と似た嗜好の読者)にとって100点となる作品が、自分と異なる嗜好
の所有者にとっては、20点の評価しか得られなくて、
逆に、作中の一部を万人向けにカスタマイズ(ようするに直接心理描写を削る)すると、
自分(と多分、似た嗜好の読者も)にとっては80点まで出来が下がってしまうが、
そのかわり、自分と異なる嗜好の所有者にとっても、60点ぐらいの出来で楽しんでもら
えそうな場合、くわたろさんならどちらを優先しますか。

僕は、以前宣言した通り、心理描写を抑えることによって、自分にとっての点数が一点
でも下がってしまうなら、確実に前者(自分にとって100点)を選ぶと思います。
(今現在、自分にとっての点数を落とさずに、うらかみさん等のアドバイスを取り入れる
方法がないか研究中ではあるが、どうやら作風というのは、根本的には単なる“嗜好”に
属する問題みたいなので、正直、不可能に等しいです。(汗)
変則に複数の心理描写が入り混じると、辛くなるらしいので(僕は全然辛くないですが)
完全に一人称にしてみるのも手なのかもしれませんが、シンジとアスカの心理描写が
その場で交差しないと、僕自身は読んでて全然面白くないので難しい。)

心理描写を抑えて書いているタイプの作者のヒトは、自分にとっての点数を落としてでも、
あくまで読者用にカスタマイズしているのか、それとも、心理描写を抑えた作品そのもの
が極度の直接心理描写が嫌い…という作者にとっても、読んでて100点の出来そのもの
の作品なのか知りたいです。

あと、全然関係ないですが、
僕が一度やってみたい野望は、自分の「二人の補完」に対する記憶を一切消し去った
上で、『単なる一読者』として「二人の補完」を読んでみることであります。
(恐らく、ほとんどの作者のヒトは一度は考えたことがあると思いますが。)
もし、僕が本当に、単なる一読者の立場として「二人の補完」を読むことが出来たら、
一体自作に自分はどんな感想を抱くだろうか。
『素晴らしい』と感動するだろうか。それとも『痛い』と叫んで読むのを途中で止めて
しまうのか。18話のミスリードは笑って許せるだろうか。それとも、怒るのか。
一番知りたいのはその時、自分は自作の心理描写をくどく感じてしまうかどうかですね。
今現在の自分は全然クドク感じず、あの直接心理描写は必須だとさえ思っていますが、
それはあくまで作者だからであって、記憶を失った読者として読めば、また違った感想
が出てくる可能性があるからですかね。
例えば、いびきが極度にうるさいヒトが、自分が寝ている時に、自分のいびきがうるさ
くて眠れない…ということはないが、テープか何かに録音して、後で聞かされると、
うるさくて溜まらない…という場合があったりします。
それと同じように、もしかして記憶喪失の自分が読めば、どうだろうか。
不可能とは分かっていても、是非一度やってみたい気がします。
(当然どうなるかは答えはやってみないことには分からないが。)
 
 

>……えと、なにやら熱くなってしまいましたが。(^^;

いえいえ、こういうのはお互いに熱くなるぐらいが丁度良いです。(笑)

>乱文失礼しました。また不躾な表現などしてしまいましたが、そこらへんも
>失礼しましたです。

肯定であれ、反発であれ“真剣”な意見には、こちらも真面目に対応したいと思って
いますので、こちらこそ、またお願いします。

それでは今回はこの辺りで…。
 


【名  前】くわたろ
【タイトル】そんで、まあ、もひとつ
  10/07 12:40
Mail: kuwataro@speed.co.jp
URL: http://www.speed.co.jp/kuwataro/junk/index.html
【メッセージ】
つづきまして、論述について。

「二人の補完」の成立過程が判ったおかげで、私がこの作品に感じたものの理由も見えてきました。

基本構造がしっかりしているというのは、出発点(映画のラスト)と終着点(二十五章 I need you)を繋ぐという大目標のための、前章後章、エピソード配置、キャラ設定というトップダウン的な書き方の利点が活かされているからだと思います。

冬月というキャラの描写に感じた違和感が、その構造を作る過程でけびんさんが妥協した箇所であったということもわかりました。後章の学園という舞台設定もおなじ理由でしょう。
 

以下、第五回の論述内容への疑問提示という形で。
(と、その前に、けびんさんが“世界観”という単語で表現したものについて“舞台設定”と言い換えさせて下さい。なにやら座り悪く感じてしまったもので (^^;)

最大の疑問は、“心理描写”と“舞台設定”が対立するという命題。
これはもちろんけびんさんの目指す、“最終的に二人は(けびんさん的に)結ばれる”、という条件下での命題なんですけど。

私見ですが、少々見方がずれてるような気がします。
舞台設定に登場人物は従属する、というのがこれに関しての私の回答になります(前衛作品とかだとまた別なんでしょうが)。

たしかに、けびんさんの設定した目標にはシンジ、アスカの変化や成長自体が含まれているので、それを否定してしまう設定が排除されているのはわかります。仕様書に基づいて設計するのはごく普通の手順。

ですが、ですね。

妥協という形で舞台設定を再設計すると、妥協の分、作品世界の持つ魅力は減ります。真剣に映画後の世界を構築しようとした「二人の補完」に、これは大きなマイナスでしょう(そこをキャラの魅力でおぎなうってのがキャラ流用二次創作のいいところラクなところなんでしょうが)。

そして舞台が、けびんさんの表現するように“甘い”ように変えられたら、その中の登場人物もやっぱり甘くなっちゃいます。

“甘い”というのは不正確ですね。“薄い”に言い換えます。どんなに舞台設定や世界観が性善説的だったり日常性が強かったりしても重厚な作品はあります。

だけど、どうしても「二人の補完」は“薄い”と感じてしまう。

そしてそれがもどかしいのは「二人の補完」が目指しているであろうものは、映画や「ある神話」を意識してる以上、軽妙なラブストーリーというものではないからです。薄っぺらくして妥協するでなく、映画や「ある神話」と別な方向に濃くして欲しかった。

舞台を薄っぺらと感じてしまった観客にとっては、その中でどんな芝居をされても、そういうものだと見えてしまう。そういうものと楽しめる筋書きならともかく、そこで大袈裟な芝居をされると、なんというか、醒めます。

論述は読みましたので、「二人の補完」がけびんさんにとってとてもパーソナルな話だというのはよくわかりました。私が読み取った以上に、おそらく「二人の補完」の世界というのは映画や「ある神話」と対を成して細部まで構築されているのでしょう。

ならば、ですね。

これから書かれるという続編では、それをとことん突き詰めて、それをちゃんと見せて欲しい。見せてくれないとわからないんです。できればそれをシンジやアスカに思い入れのない人間にも問答無用でわからせるような見せ方をしてほしい。

甘い世界の話だからダメというのではなく、けびんさんのスタイル(モノローグの多用とか主観の強い単語の選択というのがそうだと思ってます)というのは語り過ぎるあまり、語られるものにだけピンポイントに焦点が合って、全体がかえってぼやけてしまってるんです、私にとっては。だから見えない。だから薄い。

第四回の論述で“浪漫”というのを説明してましたけど、ウソをホントと思わせるのに必要なのは、それがどんな魅力的なウソかというのも問われるでしょうが、同じようにウソを語る語り口だって重要なはずです。最初からウソとわかるシドロモドロな口調だったら浪漫もなにも生まれません。

けびんさんのスタイルを変えろなんていいません。ただ、ちょっと気を配って欲しいだけです。お互いの気持ちを語り合うだけの芝居なら何の舞台装置も要りませんけど、「二人の補完」で描きたかったのは、そういうものじゃないはずです。アスカとシンジが何を思っているのか、だけでなく、どこにいるのか、二人の周りを見せて欲しい。周りを無視した浮き上がった芝居をされると醒めます。取り巻く世界とつながりを持った、地に足ついた人物とその芝居が見たい、そういうことです。浪漫を感じるためにも。
 
 

……えと、なにやら熱くなってしまいましたが。(^^;
ここまでにいたしとうございます。m(_ _)m

乱文失礼しました。また不躾な表現などしてしまいましたが、そこらへんも、失礼しましたです。
んでわ。
 


【名  前】くわたろ
【タイトル】んじゃ、まあ、ひとつ
  10/07 12:37
Mail: kuwataro@speed.co.jp
URL: http://www.speed.co.jp/kuwataro/junk/index.html
【メッセージ】
はじめまして、けびんさん。
論述おつかれさまでした。
で、

>何か御意見を聞かせてもらえたら嬉しいです。

ということなので、論客でもなんでもありませんが、感想など。

その前に、「二人の補完」についての感想、書かせて下さい。じつは以前ここにカキコしようと思ってたらタイミングはずしたくさくなって、そのままになってたやつなんですけども。(^^;;;
 

《単語について》

三人称の部分で、かつ登場人物の心理からは離れて単に叙述しているだけのはずの箇所にも、かなり価値判断の濃厚な単語(美しい、ピュア、e.t.c)が使われていて、それが私にはどうも鼻についてしまいました。
これは嗜好の問題、あるいは些細な技巧の問題かもしれませんが、かといってこの点を変えたところでけびんさんの表現したかったことが作品から失われるとは思えないので、いちおう触れます。

《キャラクターについて》

マヤ、マナ(外伝含めて)、ケンスケ、サエコについては筋の通った人物像が読み取れました。ただ、それだけに最終章のマヤはちょっと残念。(アスカからサエコについての話を聞いただけで入れ込んでしまうというところ、ここから私はマヤの持っている単純性(潔癖症に繋がる)を感じましたので、これはこれでギャグにしなくても、ということです)

シンジについては後章に入るとどうも人物像が散漫になったような印象があります。これは、前章と後章をつなぐ外伝“ある少年の〜”を読んでも同じでした。

アスカは前章と後章でつながりにくいのですが、それぞれ分けて見れば、くっきりしていてリアルです。特に後章の節目節目での、気負いぶり落ち込みぶりなど感情の振幅の大きさが、不安定な彼女らしく思えました。

一番気になってしまったのが実は冬月です。なにやらスーパー冬月ではないかと。
この作品でこの脇役に引っ掛かっているようではそもそも読み方が間違っているのでしょうが、それでも非常に気になりました。冬月について、マヤ以外のネルフ総体を代表して描かれているのだと解釈したせいもあるでしょうけど、彼があまりに有能にして善人であるので、その結果この作品世界全体のリアリティを疑って読まざるを得ませんでした。

《ストーリー:前章》

アスカの目覚め方、それに続く一連の折檻の場面はよかったです。特に、言葉でなぶるだけでなく具体的な(肉体的な)痛みを感じさせる場面があったこと。暴力というなら、読んでるだけで冷や汗が出てくるような暴力であるべきですし。

《ストーリー:後章》

サエコとその亡夫のエピソード、よかったです。大きなストーリーの流れにも、アスカへの影響ということでちゃんと関わってきていますから。
シンジに拘って小姑になってしまうマヤ、シンジを殺しかけた負い目を背負いながらあがくアスカも納得。この二人については、前章が活きていると思えました。

《ストーリー:後章の学園部分》

インデックスページを見た段階でいやな予感がしていましたが、アスカが本当に転校してきたところでやはり脱力してしまいました。読み終わった段階でも、学園を舞台にしたことがまだよく分かりません
仮にストーリーの要請上、二人(アスカとシンジ)を同じ高校に通わせなければならないのであれば、MAGIを扱うにまで成長したアスカがその選択をした理由(高校に通ってシンジをゲットするのよっ、という高校生でもしないようなことを決意する理由)について納得させてほしかったのですが、いま一つ真実味が感じられませんでした。マナと張り合う、という以外に、その理由や拘りを具体的なエピソードで見せてくれればよかったのですが。
ただ、学園ということを納得すれば、その中での人間関係、ファンクラブの女の子たちの言動など、いかにもこの年頃にありそうでいて、よかったです。じたばたするケンスケも。マナについては、アスカと掴み合いのケンカくらいすると期待して読んでいたんですが……、ちと不完全燃焼のような気が。

《文章全般から受けた印象》

通読して感じたのは、常に全力投球ともいえるような筆致なので、気負い過ぎて空回りになってしまっているのではということです。これだけの分量であるなら、めりはりをつけた方が良いのではと。
ただ、これが、けびんさんのスタイルなのだなということも理解できます。けびんさんがこのスタイルに拘って書きつづける明確な理由があるなら、次回作ではこの方向を深めていって下さい。その時は私もまた違った印象を持てるかもしれないです。

《批評のフリも止めて余計なお世話的感想》

言葉の段階で引っ掛かってしまった私にとって、「二人の補完」は「演出に恵まれなかった良い脚本」というのが正直なところです。読後にあらためてどういった話なのかと粗筋を思い出せば、プロットも手堅く組み立てられ、人物の配置も練られているといえます。物語る内容の大枠は良いんです。なにより完結してますし。
それなのに、というか、だからこそ、それぞれのシーンを物語る語り口というやつが(私にとって合わないということに過ぎませんが)非常にもったいないと感じてしまいました。
 

つづいたりする……(^^;


【名  前】MEGURU
【タイトル】帰ってみれば
  10/07 00:58
Mail:
URL:
【メッセージ】
半月ぶりに日本に帰る。
久しぶりという気もしないでもないのだが、半月程度で何かが替わるわけではない。8歳児妹は相変わらずまだ人間未満だし、同行者は一向に体型が変わらない。8歳児は相変わらず騒々しい。
鯖氏は未だに復帰していないし、けびん氏が膨大な論文を載せている。けびん論文は未読なので、とりあえず保留。

【名  前】けびん
【タイトル】論述『たった一つの冴えない遣り方』
  10/06 19:15
Mail: itirokai@gol.com
URL:
【メッセージ】
総合の皆さん、お久しぶりです。けびんです。
論述の方の残り2回分が一応完成しましたので掲載させていただきます。
ただ、全体を纏めると、今まで書いてきた四回分と今回の二回分を合わせて計六回に
なるのですが、個人的な事情により、掲載間隔がえらく開いてしまったので(汗)
前回までの分との前後関係がかなりあやふやで分かりづらいような気がするし、
(というか前回書いた内容を覚えているヒトいるのかしら)またT.OKAさんの
『エヴァ狂騒曲』みたいに(狂騒曲と比べたらあまりの質の低さに泣けてきますが)
自分のHPに転載するような当てもないので(自分はHPを持っていないので(汗))
今までの分と今回の分とを、全部合わせて再掲載するという形を取らせていだきます。
(一応上から読み易いように逆側から登録し直しました。)

というわけで、管理人様(フランソワさん)へ。<完全に私信
上記の事情により一度掲載した文章を再掲載させてもらいましたが、もし、
一つの掲示板内でそういう真似をするのがまずいとしたら、今回新規となる
第五回目と最終回用のカキコ以外の分を管理者権限で削除してください。
 

尚、今まで未定だった論述のタイトルの方は、オリジナルエヴァの企画段階の最終話
(第二十六話)のタイトルに予定されていた、“たった一つの冴えたやり方”をパロって、
『たった一つの冴えない遣り方』とさせて戴きました。(苦笑)
では、自分の論述に興味のある方は、上の方からカキコを御参照して下さい。
 

『たった一つの冴えない遣り方』
第一回「僕にとってのエヴァ」
第二回「エヴァFFとの出会い」
第三回「ある神話について(前編)・(後編)」
第四回「“嘘”と“浪漫” “物語”は“現実感(リアリティ)”を越える?」
第五回「『ある神話』のアンチテーゼとしての『二人の補完』」
最終回「今後の予定」
 
 


【名  前】けびん
【タイトル】第一回「僕にとってのエヴァ」
  10/06 19:13
Mail: itirokai@gol.com
URL:
【メッセージ】
自分が実際にエヴァに嵌まったのは、TV版が終了してからです。
当時、リアルタイムにエヴァに嵌まっていた友人から勧められて…という
全国で1万人はいると推測される実に在り来たりなパターンですね。
ちなみに僕を悪の道へ誘い込んだその友人(一応、綾波人)は、EOEを
最後に、特にエヴァFFに嵌まることもなく見事にエヴァから解脱すること
に成功しました。(というよりEOEのような電波映画を見せられたら、
普通の人はエヴァに対する未練そのものが消滅してしまうのかも(汗))
なんかすごく悔しかったので、その友人を自作のオリキャラとして無理矢理
エヴァの世界に出演させたりしています。(笑)

…で話を戻して、友人の勧めということで、それほど乗り気でもなくレンタル
ビデオショップから、とりあえずエヴァの第一巻目(1・2話)を借りてきて、
さっそくビデオで再生。
オープニングの「残酷な天使のテーゼ」を見た刹那、得体の知れぬ迫力に、
いきなりドキモを抜かれる。
僕も、エヴァに魅了されたのは、やっぱり第一話の今までの従来のアニメには
見られなかった表現しようがない異様な雰囲気に飲み込まれた…ということに
尽きます。
特に、「包帯姿の綾波レイが運ばれてくるシーン〜第三使徒サキエルの前に
初号機が姿を現すまで…。」のシーンから受けた衝撃は自分の貧困なボキャブラリ
では到底表現出来ません。
その時の気持ちは、砂漠谷さんが「同志達へ 或る綾波に惚れた狼の檄文」で
語られた「第一話の正しい見方」に近いモノがあり、多分、砂漠谷さんが
表現された衝撃の40%ぐらいは間違いなくあの時の自分も受けていたでしょう。
(ただ「Fly Me To The Moon」というエンディングはあまり好きじゃないですが)

で、慌てて三巻(第六話まで)までをビデオレンタル。
俗に綾波クライマックスと呼ばれる「笑えばいいと思うよ。」のシーンまで
見て完全にエヴァの虜にされ、それ以後、一月単位で2話づつ発売されるエヴァの
LDの販売日を心待ちにする日々が続きました。

八話の「アスカ来日」以後、雰囲気がガラリと変わって随分とマトモなロボット
アニメになりましたが、もともと節操のない性格のせいか、こちらの明るいノリ
の展開も自分には大変楽しめました。
というか、この頃のエヴァからは「心理・人間関係」よりも、「謎解き・ダイナ
ミックなメカバトルアクション」の方に目を奪われていたので、19話「男の戦い」
をはじめとしたエヴァと使徒との派手なバトル(つまりビジュアルとしてのエヴァ)
を中心に物語を追いかけていたからのような気がします。

以後、20話まで達した後、なぜかガイナックスは21話以降のLDの発売を延期。
フィルム・コミックスやアニメージュ等のアニメ雑誌から、その後の展開(TV版は
未知の数々の謎を残したまま終了したらしいこと)を知る事になり、映画が公開され
るまでの間、世に溢れ出た数々の「エヴァ謎解き本」を読破し、エヴァのエンディング
を自分なりに夢想しながら、ひたすら映画の公開を待ち続けました。
このあたり自分は非常にステロタイプなエヴァファンだったと思います。
なんにしても、映画版では、未だかつて無いアニメ至上最大最高の傑作を見せてくれる
ことを盲目的に信じていました。この時は…。

限定公開版の春映画「Death&Rebirthヒト新生」
色んな意味で驚かされることになる。
まずはアスカの異常な活躍振り。
この頃の自分はアスカにそれほどの思い入れは無く「アスカと綾波とどっちが好き?」
と聞かれたら、どちらかといえばアスカ寄りかな…と答える程度の差しかなく、
というよりもエヴァのヒロインは綾波レイで、アスカはレイとシンジを競い合った
挙げ句敗北する、三角関係の御約束のセカンドヒロインだと思っていました。
この当時は自分はエヴァを「普通のアニメ」と錯覚していたので、三角関係も
“御約束通り”進行するものと勘違いしていましたが実にとんでもない過ちでした。(苦笑)
そんなわけで、自分はアスカが目立ってくれればいいな…とは思いましたが、それが
「デスリバ」で現実のモノになるとは全然考えていませんでした。

アスカの復活の過程も自分の予測(というより願望だろうな)から大幅に外れていました。
自分はEOEを見た後でネットに参入した口なので、その当時からすでに存在した
24話分岐の俗に「看病刷込み」と一部で皮肉る人がいる「シンジが心を壊したアスカ
を甲斐甲斐しく見舞って、アスカが心を開く。」というパターンの看病補完FFの存在
を知る由もなかったですが、それに近い内容を描いた同人本を何冊か読んだことがあった
ので、そのラインで話が進むものと思っていたのですが、まさかシンジがアスカの病室
でしたことは…。(絶句)
正直に告白すると自分は、最初にあのシーンを見た時、シンジが自慰をしたことにまるで
気づきませんでした。
それは別に自分が初心だとかいうのではなく、単純にあのシーンで、ロボットアニメ
の主人公が“ああいう行動”を取るなど、予測と想像の範囲外だったからです。

結果、アスカはシンジの力を一切借りることなく、弐号機の中で復活。
戦自相手に派手に暴れまくるシーンでは、「使徒でなく、同じ人間を殺すのに何の躊躇
いもないの、アスカちゃん?」という考えがチラリと頭を過ぎりましたが、それ以上に
前半部の戦自によるネルフ職員のジェノサイド(大量殺戮)で溜まっていたフラスト
レーションが一気に解消される爽快感の方が大幅に上回ったので、「デスリバ」のみ
採用の「魂のルフラン」のバックミュージックにも乗せられて、後半部のアスカの逆襲
に胸のすくような思いでした。
最後は「エヴァシリーズ」が空から回転しながら舞い下りてくる、一番良い所で断ち
切られるという、まさしく“鬼の引き”。
一部、シンジの態度に予測を大幅に裏切られた所もありましたが、「この調子なら後半の
シンジの頑張り次第では“大団円”も可能かも…。」と微かな可能性を視聴者に示唆する
一番曖昧(この地点でもまだ誰も(ミサトもリツコも)も死んでいなかったし。これは
やっぱり確信犯だろうな。)な所で話を切ったような気がします。
(もし「デスリバ」で「AIR」の内容を最後まで全部放映していたら、果たして、どの
ぐらいの人がEOEを見に行っただろうか。)
 

そしてEOE。
前半部はデスリバそのままなので特に感想は無し。
(弐号機の戦闘シーンで、「魂のルフラン」がバックミュージックから外されて
いたのがやや残念だった。)
エヴァシリーズが舞い下りて以後のシーン。
アスカがいきなりエヴァシリーズの一匹を瞬殺した瞬間「あれっ!?」と自分は
首を傾げました。

「??? …………なんか予想していた展開と違うぞ。」

自分の月並みな予測では、
アスカはエヴァシリーズの強さを引き立てる為の“前座”として、派手に敗北する。
さらに危機一髪の所でシンジの乗る初号機が到着。(超御約束(笑))
初号機は月から呼び戻されたロンギヌスの槍を片手にバッタバッタとエヴァシリーズを
薙ぎ倒していき、最強のエヴァの力をまざまざと見せ付ける。
(で、ここから先は単なる電波(笑))
形勢不利と見たゼーレは、9体のエヴァシリーズを合体融合(死語)させ、“究極完全体
キング・エヴァンゲリオン”(超死語)を誕生させる。
エヴァの10倍の大きさと初号機の100倍のパワーを持つキング・エヴァンゲリオン
の力に再び劣勢に追いやられるシンジ。
その時シンジの叫びに応じて、アダムとリリスの力を取り込み、二人目の記憶を思い出
したレイがATフィールドを張りながら戦線参入。
最後はチルドレン三人が力を合わせて、“奇跡と愛の力(ミラクルラブラブパワー)”
(鬼死語)を発動させ、キング・エヴァンゲリオンを撃退。
“落ち”は未定。
けど、ピカッーと世界を光らせて、サードインパクトを起こした後に、“愛と奇跡の力”
が世界を再構築し、そこから学園エヴァが始まる…というような“転生落ち”だけ
は勘弁してね…などと思ってました。

………脱線してしまった。(汗)
で、話を元に戻すと、アスカが次々とエヴァシリーズを倒せば倒すほど自分は、沸き上
がる不安と違和感を抑える事が出来ませんでした。
「アスカって、こんなに活躍していいキャラクターだったけ?」

アスカの戦闘技術はともかく、純粋な戦闘力だけ見れば、アスカのシンクロした弐号機
の能力はシンジがシンクロした初号機に遠く及ばない。
(「男の戦い」でも、弐号機はゼルエルに瞬殺されちゃったもんな。けど、あの時
シンちゃん本当に頑張ってたよな。エネルギー切れになって暴走するまでの間、自力で
最強の使徒と互角以上に戦って…。ううっ…、片腕を失っても、ひるむ事無く敵に立ち向
かっていった、あの時のシンちゃんはどこいっちゃったの(涙))

なのに、アスカちゃん、活躍しすぎ…。
というかエヴァシリーズが弱すぎる。(1対9だから少しは団体戦の戦術というものを…。
なんであんな簡単に各個撃破を許すんだろう。)
もしかして、このまま勝っちゃうの?
だとしたらシンちゃんの出番はどうなる?
というか、ここでエヴァシリーズがやられちゃったらまだ半分も残っているのに
どうやって話しを引っ張るんだ。(爆)

などと、余計なことを考えながらも
「このままだとまずい。」

正直、アスカというキャラクターがエヴァという物語の中でシンジとレイほどの
プライオリティを持っているとは思えない。
なのに、EOEでは前半部の主役と言っていいほど活躍しすぎている。
元来引き立て役のはずのキャラが活躍しすぎると大抵ロクなことにならない。
なにかアスカに対してとんでもない、“どんでん返し”が用意されているの
ではないか…。
自分のこの悪い予感は、最悪の形で当たりました。

「AIR」が終了してインターバルに入って思ったこと…。
庵野監督は何か「アスカ」というキャラに対して怨みでもあるのだろうか?
(とりあえず、この時には庵野監督とアスカ役の声優との確執を全然知らなかった
ので不思議でしょうがなかった。)

正直、弐号機のダメージが“感触”としてだけでも、総てアスカの身体に
フィードバックされていたと考えると…
“壊れたよな…。”
多分死んだとは思うけど、生き残った方がかえって不憫かも。
あんなとんでもない真似をされて精神に異常をきたさない…としたら、よほど
精神が鍛えられた強い人間だけだろうな。
(ましてや戦闘中から既に半端“狂気”に犯されていたみたいだし…。)

で、後半部の「まごころを君に」は実は特に感想がなかったりする。
初号機が“セフィトロの木”に化けた辺りから、思考回路が麻痺してしまい、
ほとんどラストまで全然思考が働かなかった。
だから前半のアスカの扱いについて言及できた程には、後半の綾波レイの扱いに
ついてはこの時考えることが出来なかった。

ラスト、なぜか浜辺に横たわるシンジとアスカ(が生きていたことが本当に不思議だった)
そして例の首締めシーンと「気持ち悪い。」
映画を見終わった瞬間に思ったこと。
「庵野監督はよっぽど、シンジとアスカをくっつけるのが嫌みたいだな。」
“落ち”のつけ方も容赦ないし。
ただ、あの首締めシーンは極めて“EOEらしい終わり方”だったような気もする。
(少なくとも、あのラストでシンジがアスカを抱きしめてキスシーンで終わっていたと
したら、全体の流れからして相当違和感を感じていただろう。)

EOEが終わってから、自分のエヴァに対する見方は思いっきり変化した。
たくさんの「エヴァ謎解き本」を読みながら夢想していた、本編で引かれた数々の
謎や伏線が映画では思いっきりうっちゃられたことなどどうでもよくなった。
エヴァと使徒との派手なメカバトルアクション(映像としてのエヴァ)にも、興味が
なくなった。(LDで何度も繰り返し見返して堪能していた「男の戦い」をはじめと
した、エヴァと使徒とのバトルシーンもあれ以来ほとんど見なくなった。)

自分がエヴァで残った興味(未練)はたった一つ。

親(庵野監督)から捨てられた二人の子供達(シンジとアスカ)はあの後(EOE後)
幸せになれるのか。
庵野監督から一緒になることを全面的に否定されたシンジとアスカの二人は、EOE後
の世界で、もう一度一緒になることは出来るのか。

この時から、“EOE後のシンジとアスカの二人の物語”が
”僕にとってのエヴァの総て”になった。
 

つづく…。
 
 
 
 


【名  前】けびん
【タイトル】第二回「エヴァFFとの出会い」
  10/06 19:10
Mail: itirokai@gol.com
URL:
【メッセージ】
EOEを見終わってからしばらくしてインターネットを始めました。
EOE放映後、以前に比べてエヴァ関連の書籍が著しく減少しはじめたので、
(やっぱり皆愛想を尽かしはじめたんだろうな…。)それに伴い、自分以外の
人間が、エヴァをどう解釈しているかを知る手立てがなくなってきたので、
ネット界の情報の流通性を利用しようと思ったのが切っ掛けです。
さっそくYahooの検索機能で“新世紀エヴァンゲリオン”で検索を掛けてみると、
驚く程たくさんのエヴァ関連のHPがリストに現れ、この時はじめて“エヴァFF”
なるエヴァを題材にした私小説の存在を知ることになり、瞬く間に、今度は
エヴァFFに嵌まることになりました。

前述した通り、自分の元来の興味はEOEのアフターストーリーだけなのですが、
(だから、良く出来たEOE補完小説を一本見つけられたら、それで十分目的は
達成されることになる)まあ、それはそれ…ということで、「めぞんEVA」
「日刊アスカ」「会員制エヴァルーム」「隠しEVAルーム」「CreatorsGuilt」等
有名サイトを中心にリンクを頼りに、初期の名作を次々に読破。
この時は本当に節操がなかったです。
LAS,LRS,SF,ギャグ、再構成、分岐、別世界、短編、長編、ハッピーエンド物、
アンハッピーエンド物等のジャンルにはほとんど拘らずに、“面白い”と思った作品
を片っ端から消化し堪能しました。

この時の自分の心境を言葉で表現するなら
「わぁ〜い。シンちゃんとアスカがラブラブだぁ〜。(^◇^)」
の一言に尽きると思います。(爆)

それからしばらくして、様々なパターンのエヴァFFを読み尽くした為か、“倦怠期”
(絶対に単語の使い方が間違っている。)に突入…というよりも、ようやく自分にとって
の本筋に立ち返ったというところだろうか…。
数々の名作を読み心から堪能しながらも、常に心の片隅に付き纏っていた疑問。
「ネット世界には、魅力的なシンジ、アスカ、レイ等の物語を描いた人はたくさん
いるけど、“EOEからのシンジとアスカ”を描いた人は誰もいないな…。」
もちろん、EOEのアフターストーリー自体はEOE後初期当時でも数は少ないながらも
存在していましたが、少なくとも僕の目から見たら、そららの作品の中の“シンジ”と
“アスカ”は、EOEからの“シンジ”と“アスカ”とは別人でした。
(あくまで僕個人の身勝手な主観でそう感じただけの話しなので、それが悪いという
気も間違っているという気も全然ないです。)
 

それ以来、“EOE補完”のジャンルを中心にエヴァFFの発掘を続ける。
「これだけ魅力的なシンジとアスカを描ける人が大勢いるネット世界にいれば、
いつかきっと、EOEからの“シンジ”と“アスカ”を描いて、その上で二人を
不自然なく結び付ける物語に出会えるかも知れない…いや、いつかきっと出会える
はずだ…。
そして、その物語の完結を以って、ネット世界からも足を洗って、EOEに縛られた
“自分の中のエヴァ”に決着を付けよう…。

この時すでに自分は重大な過ち(というより勘違いか)を犯していたような気がします。
僕が自分個人の“勝手な事情”でネット世界に参加しているように、今、エヴァFFを
書いている人も皆、“各個人の各々の事情”で作品を書いているという現実に気づいて
いなかったからです。
実際、お金を払って見にいった「エンタテイメントの商品」であるはずのEOEでさえも、
庵野監督は“お金を払った視聴者が望むモノ”よりも、“自分個人の何らかの事情”の方
を明らかに優先させていたように自分には感じました。
(その結果か…どうかは微妙なところだが、自分はEOEの結末に全然満足することは
出来なかった。)
ましてや、ボランティアで無償で作品を書いている同人作家が、身も知らぬ赤の他人が
望むモノを提供しなければならない義務など、どこにもありはしない。
(自分の事情(自分の書きたいテーマ)より、他人の事情(他人が望むテーマ)を無条件
に優先させる人間などまず存在しない…ということですね。)
自分がそのコトに気づいたのは「ある神話」という作品に出会ってからです。
 

話戻って上記の事情により、EOE放映以来、少しずつ数を増やし始めたEOE補完小説
(EOEからのアフターストーリー)を中心にエヴァFFを探し始める。
数々のEOE続編を読んだ結果、“僕個人にとってのEOEの正当な後継作品”(つまりは
EOE後の展開に最も説得力があったリアリティのある作品)となった作品が、
何度も話しにでている「ある神話」でした。
(恐らくしのぱさんにとってはすごく迷惑な話しだったと思いますが。(汗))
これは僕にとっても大いなる誤算でした。
僕個人の心の中の“EOEの正当な後継作品”の座に居座ってしまった作品の結末は、
僕の卑小な価値観では、絶対に許容することが出来なかったからです。
本来なら、「ある神話」の物語もまたEOEからの可能性の一つを描いた作品にすぎない
のだから、結末が気に入らなければ無視するのが本来の筋だということは分かっています。
けど、この場合僕にとっては“自分の心を偽れるかどうか…”ということが総てだったの
で、自分自身に対してとことん不器用で我が侭な僕の心は、自分を騙すコト(「ある神話」
が持つ“浪漫”(物語)を無視するコト)がどうしても出来ませんでした。
(先ほどから“正当な後継作品”というオフィシャルっぽい言葉を使ってますが、
あくまで、“僕個人にとっては“という僕自身に限定してだけの話しです。本来の
意味での”エヴァの正当な後継作品”を作れるのはガイナックス以外に存在しませ
んし、それは別にしても、僕以外の人は、僕とは異なった自分自身の明確な基準で別な
エヴァ小説を探すなり、またはEOEそのものを無視するなりするでしょうから。)
 

僕の心の中で「EOE」と「ある神話」が完全にリンクしてしまった為に、それ以来、
末期的エヴァ重症患者である自分の症状はさらに悪化の一途を辿ることになる。

というのも、「EOE」を見た地点での自分の心情をおちゃらけて表現すると、
「え〜ん。え〜ん。途中お互いを意識しあっていたほのぼのとした時期もあったのに、
EOEまで行き着いちゃったら、もうシンジとアスカは絶対に一緒にはなれないんだ。
しくしく…。(;O;)」
というイエローゾーンで何とか収まってましたが、
(これでも端から見れば十分病気という気もしないでもないが…。)
「ある神話」が自分の中のEOEの正統な後継作品の座に定着して以来、
「うわああぁぁ〜ん!!!!。EOE後のシンジとアスカは、お互いに心の底では愛し
合っていたとしても、絶対に死ぬまで一生巡り合うことは出来ないんだ。
びええぇぇ〜ん!!!ジタバタジタバタ!!(><)」
というように、「あんた一度セラピー受けた方がいいんじゃないの?」
と突っ込まれそうなレッドゾーンまで落ち込んでしまいましたから。(苦笑)

う〜ん。
どうも自分の心の闇の部分を何とか文章化しようとすると些か“照れ”が入って
しまうみたいです。(苦笑)
(上記の文章から不快感を感じられた方、なにとぞご容赦ください。m(__)m)

で、ちょっとだけ脱線。
以前総合でT.OKAさんの「このエヴァ」が騒動を起こした時、自分はやや不思議でした。
何で、他人の作ったランキングにああまで拘るのだろう。
他人が自分のお気に入り・もしくは自分の書いている作品にどういう評価を下しても、
自分の中のランキング(作品の良し悪いの基準)が変化するわけでもないのに。
僕の中のランキングでは「ある神話」が絶対です。(きっぱり)
「ある神話」はエヴァFFとして巷から十分高い評価を受けている作品ですが、仮に、
誰からも評価されない無名作品だったとしても、それでも自分にとってはEOE後小説
の最高傑作だったと思いますから。
(実際、「ある神話」は、“自分にとっての最悪の結末“が描かれているにも関わらず、
自分好みの結末と筋の通った展開を持つ他の数々のEOE後小説の名作を大きくぶっち
ぎって自分の中でのランキングのダントツトップに君臨しているわけなので。)
だから、自分にはT.OKAさんの「このエヴァ」のようなランキングは作れないです。
もし、自分がT.OKAさんのやり方でランキングを作ったとしたら、お気に入りの作品
に6〜10で十段階で点数を付けた後に、別枠として「ある神話」に100点がつい
てしまうぐらい、僕にとってあの作品は本当に“特別“ですから。(苦笑)
まあ、T.OKAさんから恐らく最大級の評価を受けていたであろう自分が、「このエヴァ」
を弁護するようなことを言っても全然説得力がないので、脱線はこのぐらいにしておきます。
 

というわけで、「ある神話」を読んで以来、EOEに縛られた僕個人の心が開放される
どころかさらに難航してしまいました。(ハッキリ言えば、自業自得なんですが。)
以前なら僕の補完対象は“EOE”のみでしたが、読了後は対象にさらに“ある神話”
が加わってしまい厄介極まりない状態に陥ってしまったからなのですが、これは
「自分自身の心の問題を解決するのに、自身で何ら努力しようとせずに、他人に解消
してもらおう…などと考えていた僕個人の卑しい根性に対して、手痛い教訓を受けたのだ」
と自分では解釈しています。

で、上のような末期的症状に達してもそれでも諦めずに「EOE補完」に拘るのなら、
僕が取るべき選択肢は以下の四つしかありません。
@ しのぱさんにお願いして「ある神話」の結末を代えてもらうか、もしくは「ある神話」
 のパラレルストーリーを書かしてもらう。
Aしのぱさんに中傷メールを出して脅迫して(おいっ)、「ある神話」そのものを
 無かったことにさせる。(なんちゅう無茶な…)
B総合でよく見掛けるような「ある神話」の批評論文を作成して、「ある神話」がEOE
 後の物語としては説得力が無い…というような主旨のことを論理的に証明する。
C“お互いに愛し合っていたとしても死ぬまで一生巡り合うことはない”という
 「ある神話」のインパクトを打ち消せるような別のEOE補完小説を探すなり、
 自分で書くなりする。

@とAは自分にとっては論外だった。
@ はしのぱさんにはしのぱさんの思うところがあって、「ある神話」を書いたのに、
自分にとって都合が悪いからと言って、結末を代えろ…とか書き直せというのは失礼
すぎるし、(「ある神話」の分岐を書く…というのは実際にやった人がいたけど。)
A に関しては失礼とか言う次元じゃ無い。ほとんど犯罪だ。
(とはいえ、自分がしのぱさんに出したメールはいつも中傷すれすれのような気も
するが。(大汗))
Bはもしかすると今これから自分がやろうとしていることかもしれない。
実際の「ある神話」に対する技術的な論述と、なぜ、自分は当時にBを選択しなかった
かについては次回以降追々と説明します。

結局当時自分が選択したのはC。
ただ、その時の自分はこの期に及んで、まだ自分でやろうとせずに(何しろ中学生レベル
の稚拙な文章技量と乏しい知識・表現力と甘えた餓鬼そのもののメンタリティしか持た
ない自分に小説なんて大層な代物が書けるなんて、夢にも思いませんでしたから。)、
「ある神話」を越えるようなEOE補完小説を求めて、性懲りも無くさらなる発掘を続け
ました。

で、次に自分が目を付けたのは(目を付けられてしまったのは)、同じめぞんEVAで
活躍していたB08の佐門さんの「終焉の果てに」です。
(勿論、この作品もEOEのアフターストーリーです。)
確かな文章力と、巧みな心理描写と大胆かつ緻密なストーリー展開、
(あぁ〜。ボキャブラリが乏しいから月並みな表現しか出来ない自分がもどかしい)
さらに脅威とも言うべき毎日更新(聞くところによれば、佐門さんは連載中、一日の平均
睡眠時間が1・2時間だったみたいです。(尊敬))で、毎晩佐門さんの「終焉の果てに」
の続きを読むのを楽しみに会社から帰ってきた時期もありました。
(とにかくひたすら続きが気になったので外伝が発表されるとがっかりしていた記憶が(笑))
もちろん自分から見た短所
・シンジに比べるとアスカの復活がやや甘い。(これもやっぱり看病刷り込みタイプか)
・パッーと光って世界が再構築されたり、一度死んだ人間が生き返る辺りは自分の趣味
からやや外れる。(補完計画よりはるか前に死んだ加持や、ユイやキョウコの復活は尚更。)
・大人達が皆、良いヒトすぎる。(これは自分もヒトのことは全然言えない。(苦笑))
・内容的には「ある神話」のアンチテーゼにならない(これは完全に僕個人の我が侭だな)
も少なからずありましたが、それよりも長所の方が圧倒的に勝る。
「ある神話」を超えるのは「終焉の果てに」しかない…と勝手に期待し、「終焉の果てに」
の連載完結を以って、自分の中のエヴァは終わるモノだと盲目的に信じてサイレントな
がら(ようするに物臭して感想メールは送らなかったというコト(爆))応援してました。
(しかし本当に懲りない奴だったよな、僕って…。(苦笑))

で、「終焉の果てに」の本編が十七話に達した時、突然佐門さんは休載宣言を出す。
理由は佐門さんにカミソリメールを大量に送りこんだふざけた奴らがいたから。
その事情を知った時、自分はマジに腹が立ちました。
(勿論佐門さんにではなく、佐門さんを中傷した奴らに対して…。)
本編での展開では、アスカはキョウコママの慈愛で何とか立ち直り、復活したゼーレも
完全に叩き潰して外憂を無くし(自分にとってはこれが一番重要)、あとは完全に心を
閉ざして人形化してしまったシンちゃんさえ立ち直れば(まあ、これが一番大変なの
だろうが)、全員ハッピーエンド(カヲル君もレイちゃんもいるし…って佐門さんの
描いた綾波レイは多分アヤナミストのヒトは気に入らないだろうが…。)の超大団円
だ…などとえらくお気楽なコトを考えていた矢先にコレでしたから。
作品が完結したら是非礼状メールを送ろうと考えていた予定を大幅に繰り上げて、この時
生まれて始めてメール(感想というより応援メールだったが)を出して、佐門さんを励ま
そうとしましたが、時すでに遅く、すでに完全に後の祭り。
メールのお返事ももらえたし、何度かメールでの交流も持ちましたが、結局、それ以来、
佐門さんが「終焉の果てに」の続きに手を出すことはなくなりました。
(これは自分の勝手な推測ですが、多分今後も無いでしょう。(溜息))

正直、不思議でしょうがなかったのは、佐門さんの作品を「イタモノ」と捕らえて、中傷
メールを送った奴らがいたということ…。
自作がイタモノ扱いされるのはまだ分からないでもないが、(一部のLAS人にとっては
アスカの貞操はシンジ以外は絶対に犯してはならない聖域みたいですから(って、自分
も一応そうじゃん。(爆)))
自分には「終焉の果てに」がイタモノだとはどうしても思えなかった。
(そもそもハッピーエンドを前提として書かれたであろう作品がイタモノの名に該当する
のであろうか…。)
尚、僕個人とっての“イタモノの定義”は、シンジやアスカが自分個人の性根では、絶対
に抗うことも出来ない政治的暴力のような外的な悪意に無理やり巻き込まれて苦しみ続け
る類のお話を指します。(う〜ん。まさしく「ある神話」そのものだな。(笑))

何にしても、再び、自分の中のエヴァを終わらせられる取っ掛かりを失ってしまいました。

二度の失敗(というより勘違い)で少しは自分も懲りたのでしょうか。
それ以来、新しいEOE補完小説を発掘する意欲はほとんど消えてしまいました。
結局、誰も自分が望むような、お話を書いて(完結させて)くれないのなら、やっぱり、
自分のことは自分でやるしかないのかな…と奮い立って(何か勘違いしていたような気も)、
ようやく自分の重い腰を動かし「二人の補完」という作品を書こうと決意するまでには、
それからもう少しだけ時間を必要としました。

つづく…。
 
 
 
 


【名  前】けびん
【タイトル】第三回「ある神話について(前編)」
  10/06 19:07
Mail: itirokai@gol.com
URL:
【メッセージ】
今回はいよいよ核心である「ある神話」の批評に入ります。
なぜ、自分がここまで「ある神話」に病的に拘るのか、可能な限り論理的に
纏めてみたいと思っています。
 

ただ、その前に一つだけ断っておきますと、これから書く僕の論述は、恐らく
作者(しのぱさん)が意図したであろう「ある神話」の本質から大きくかけ離れた、
極めて見当違いの方向を指している…という前提についてです。

何度もしのぱさんと意見交換しているうちに、少しだけ分かってきたのですが、
「ある神話」という作品の本質は、あくまで“EOE後の世界”が主眼であって、
決して“シンジとアスカの物語”ではないということです。
(この違いは少し分かりづらいかもしれませんが、作品を書く場合、世界観とキャラと
どちらを優先して書くか…という問題に当て嵌められるかもしれません。)

つまり、しのぱさんが二人を主役として採用したのは、僕のようなシンジとアスカに
対する思い入れではなく、EOEの結末を考えると、この二人の関係が主軸になるから
だけにすぎず、ようするにしのぱさんが書きたいテーマを表現するための“駒”として
作品世界の主役という役割で出演されただけの話しだということです。
勿論、別にそれが悪いと言っているわけじゃ全然ないです。あくまで前提となる自作
と「ある神話」とのテーマの違いを述べているだけです。
だから、この作品を“シンジとアスカの物語”として見るのは、実は前提として間違って
いるような気がするのですが、自分のように“シンジとアスカの物語”として、
「ある神話」を見る人間がいたりする為に、話しがややこしくなるわけです。

そういう意味では、僕がこの作品で最も拘っている“シンジとアスカがお互いに
死ぬまで会いにいかなかった理由“も、しのぱさんから見ればそれほど大騒ぎする
ことじゃないのだと思います。
(何よりも、自分の“会いにいかない理由”の予測さえも、しのぱさんから見れば
相当見当違いのことを指しているに違いないですから。(苦笑))
恐らくしのぱさんにとっては、「二人が一生巡り合えずに死亡する」という悲劇の
結末を迎えることによって表現される「何か」(この何かは自分にも未だに良く
分からないのですが)こそが最重要項目であり且つ、物語の前提として最初から
すでに定められていた決定事項で“二人が死ぬまで会いにいかなかった理由“
は、その次にくる、あくまで二次的なモノなのだという気がします。
つまり、物語を突き詰めていった結果として、「二人が一生巡り合えずに死亡する」
という“結論”に辿り着いたわけではなく、最初から「上記の結論」は既に決定して
いて、その結論を導き出すための理由を後から付け足している…というのが
「ある神話」の順序だと思うので、その前提(二人が一生巡り合えずに死亡する)
について考察するのはのは、実は本当は全然意味が無いコトなわけです。
(じゃあ、それが分かっていて何故こんな長文を書く?という突っ込みは勘弁。
あくまで、自分の中にあるものに整理をつけるために書いていますので。)

ただ、それでもやっぱり自分は、僕個人の主観(フィルター)を通してしか、
物事(物語)を見ることも、語ることも出来そうにないので、あくまで
“シンジとアスカの物語”として「ある神話」を見たモノの意見としてこれから
論述を書いていくつもりです。
というわけで、相当「ある神話」に対して、主観と偏見に満ちた意見を書きこんで
いきますので、上記の前提(実は見当違いの意見を提出している)を頭の片隅にでも
留めておいてください。
 

それでは、本論に入ります。

まず、初めて「ある神話」の本編(この作品って最初にエンディングが発表されると
いうかなり珍しいタイプの作品なんですよね)を読んだ時には実は、全然衝撃を受けま
せんでした。
「捻たコトを考えるヒトもいるな」というのが正直な感想です。
それは多分、ある神話の本編では、ただ、“結論”が述べられていただけで、そこへ
至る“過程”がまったく描かれていなかったからだと思います。
アスカの手紙を読んだ時はハッキリ言って「あなた、誰?」状態でしたし、 EOEでは
半端、“狂獣化”していたアスカが、その後、何の脈絡もなく、世界一の権力者まで
成り上がったとか言われても全然現実感が感じられなかったからでしょう。
(自分はアスカには科学者としての才能はあると思いますが、政治家になれる適性は
欠片も存在しないと思っていたので、狙いすぎだよなぁ…と苦笑していました。)
ようするに、 
“知力の一部は傑出していても「内省」が出来ない我が侭な子供であった本編のアスカ”

“シンジの不幸に対する負い目から、自らを律して生涯罰っし続けた妙にしおらしすぎる
「ある神話」のアスカ”
が自分の中ではまったく繋がらなかった…ということでしょうか。
(シンジに関しては後で触れるのでとりあえず割省)
自分にとっては、「過程を描く」というのは、それだけ重要なことだったので、
もし、「ある神話」が本編だけで、その後「続編」が発表されなければ、自分は
「ある神話」を心の片隅にも留めていなかったと思います。
(だからこそ、自分の論述は全然見当違いなんですけどね。しのぱさんが“おまけ”
で作った「続編」の方に目を奪われているのですから。(苦笑))

で、本編の後に発表された「外伝」「続編」シリーズを読んでから、自分の中で
「ある神話」が特別な位置を占めるようになるのですが、ここでは自分はこの作品
に対して、卑怯ながら“ダブルスタンダード”を持たざるえないです。

僕がEOE続編で重視するポイントは以下の二点です。
@ EOE後のシンジとアスカの心理描写を忠実に再現しているか?
AEOE後の状況として描かれた世界観に偽りはないか?
ようするにEOE後の状況として、キャラの内面描写と作品の世界観が不自然なく
描かれているか…ということですね。
(どのような理由であれEOEに特に拘りがないヒトにとっては、自分の拘りは本当に
どうでもいいコト(特に@に関しては尚更)なのだと思いますが、僕にとっては、
この二つ(特に@)はEOE補完FFを読む上で絶対に欠かすことが出来ない最重要
ポイントです。)

自分がこの作品にダブルスタンダードを用いるのは、主に@に関してです。
(Aに関しては、まったく持つ必要がないので。)

スタンダード(1)…あくまで純粋に@(EOE後のシンジとアスカの心理描写を
忠実に再現しているか?)に拘って「ある神話」を見た場合。

は、実は「ある神話」は EOE続編としては、とんでもない落第作品だったりします。
(あくまで僕個人の身勝手な基準に照らしあわせればですが。)

それは続編「やがて曲が終わる時」「虹」で描かれていた、シンジとアスカが
明らかに、EOEのシンジとアスカとは「別人」だったということに尽きます。
百歩譲っても、アスカとシンジの「人格」に相当都合の良い、“イカサマ”
が用いられているのは否定できない。恐らく、“素”のままのシンジとアスカ
では、しのぱさんの書く物語の展開には絶対に耐えられないが為の“苦肉の策”
だとは思いますが。
(心理描写が無茶苦茶うまいので、思わず惹きこまれてしまいそうになりますが、
続編での二人の思考は、少なくとも14歳の少年少女のモノではない。)

本当は作品を語るのにこういう前提を言い出すと“切りがない”のは重々承知して
いますが、今回自分にとっては意味のあることなので敢えて言わせてもらいます。

具体的に言うなら、まずシンジに関しては、外伝・続編で身体中を切り刻まれる
酷い拷問を受けたり、数年間たった一人で、牢獄の中で孤独な時間を過ごしても、
さらに死刑囚と一緒にされてからは、毎日のように暴行・強姦を受けても、決して
心を壊すことなく、それどころか、何やら一種の“悟り”のようなものを啓いて、
死刑囚達の心のオアシスのような存在に成り果てましたが、(シンジが刑務所を
出られると分かった時、“総ての”死刑囚から心から祝辞を受けた時は本当に
脱帽モノだったが)僕には失礼ながら“イカサマ”だとしか思えなかった。
(普通の人が読めば、シンジの心理描写がめちゃくちゃ上手くて、シンジの心理の変化
のスピードが極めて巧みなので、一見、シンジは本当に“成長”(というより聖人化か)
しているように錯覚してしまうと思いますが…。)

自分が“イカサマ”という相当酷い言葉を使う理由は単純で、自分は何度「ある神話」
のシンジに自分をシンクロさせても、必ず途中で耐え切れずに壊れてしまったからです。
シンジは“選ばれし勇者”であり、命懸けで戦える気骨を持たないモノが、シンジに
シンクロしたつもりになるなど絶対に許されざる暴挙だと言われれば、これはもう謝る
しかないですが、EOEを考えるとどうしても、自分にはシンジが勇者だとは思えなかった。
ようするに、自分を基準に考えてしまうと、弱い人間が極限まで追いつめられれば
強くなれる…というのは嘘で、普通は壊れてしまうだけなのでは…と考えているだけです。
勿論、万人がそうだと言う気はないです。
“本物の修羅場”の中で、自分を高められる人間も存在するかもしれないですが、
少なくとも“EOE後のシンジ君”には絶対に無理なんじゃないかと思っているだけでして。

で、次にアスカですが、こちらはすでに本編で少しだけ触れたので単純にします。
「やがて曲が終わる時」のアスカの行動・思考にはハッキリ言って非の打ち所が
ないですが、もしアスカがあんなに“内省”の出切る性格だったら、僕は「二人の補完」
で、あそこまでアスカの扱いに苦労していないです。
(後章はともかく前章のアスカを“不自然”だと指摘する人はほとんどいませんでしたし)
ほぼ完璧に近い外的な能力を持ちながら、それが全然本人の幸せに寄与しないのが、
僕が考えるアスカのキャラクターですから。

先程から随分と酷い事を書いていますが、僕は別に「ある神話」の物語を貶めたい
わけでも、「だから自作の方が絶対に正しいのだ」という比較広告を行っている
つもりもありません。
ただ、僕個人の主観で考える「ある神話」の長所と短所は、自作の「二人の補完」
の長所と短所とまったく逆の性質を持つような気がするので、順番として、まずは
僕が考える「ある神話」の短所に触れているだけです。
(だから、天に唾するというわけでもないですが、僕が唾した暴言は後の方の論述で、
必ず、自作にも降りかかってくるでしょう。)

以上がスタンダード(1)から見た、@のポイントに対する考察です。
 

本来なら、ここでAのポイント(EOE後の状況として描かれた世界観に偽りはないか?)
に進むべきなのですが、僕は@のポイントに対して、もう一つ別なスタンダードの見方を
持っていたりします。

スタンダード(2)…@(EOE後の二人の心理描写を忠実に再現しているか?)には
特に拘らずに、“別人”とかいう野暮な考えを頭の中から追い払った上で、「ある神話」
のシンジとアスカというキャラクターの善し悪しを見た場合。

スタンダード(1)の“別人論”には目を瞑った(って、こんなことに拘るのは僕ぐらい
だろうけど)上で、スタンダード(2)に基づいて二人を見れば、「ある神話」の
シンジとアスカは実に魅力的なキャラクターに仕上がっていると言わざるえません。
(あくまで「続編」地点の二人であって、「本編」(エンディング)へ戻る(辿り着く)
と、思いっきり株価暴落なんですけどね。(苦笑))
それほど僕は「続編地点」のシンジとアスカというキャラクターに対して、強い魅力と
同時に強烈な反発を感じますから。

僕は「ある神話」では、全然泣けなかったのですが、たった一つだけ“感動したシーン”
があります。
それは、「やがて曲が終わる時」の刑務所内でのアスカの元恋人のイェルクとの面談で
「あなたは、何回も犯されている。汚されている。彼女にふさわしいと思いますか?!」
とイェルクがシンジに質問した時のシンジの回答に尽きます。
実際はもっと、色々とイェルクとの細かいやり取りがあったのですが、あまりネタバレ
してもアレなのでシンジの“答え“を要約すると

「そうですね。僕は汚れている。確かに彼女に相応しく無いかもしれません。
でも、あなたは、自分の愛を、分相応の愛に限定出来るのですか?
自分の心の底からの想いを、そんな風に封じられるのですか?
僕には出来ません。」

この台詞を聞いた時、「これほど純粋な愛の形があるのか?」と底知れぬ感動に
打ち震えました。(本当に大袈裟な…。(苦笑))
自分は元来、LAS人でありながら、エヴァ本編でのシンジのアスカに対する“愛情“
を思いっきり疑っている人間ですが、そんなことはどうでもいいぐらいに、「続編」
のシンジに“一途さ”に、のめり込みました。
勿論、こういう“打算の無さ過ぎる純粋な愛”は“単なる己を知らない身の程知らず
の高嶺の花“との分別が難しいですし、さらに一歩間違えれば、ストーカ行為に化け
やすい(実際にストーカーになったのはシンジでなくアスカだったが)ので難しい
ところではありますが。

僕は基本的にはスーパーシンジよりも聖人化シンジの方が嫌いなのですが、人間としての
のあらゆるポテンシャル(人生の可能性)を予め総て封じられた上で、それでも自分の
想いを最期まで“純化”し続けたシンジには、強い反発と畏怖と魅力を同時に感じ続けて
ています。(本編の最期の最後でその想いも裏切られたのですが。)
 

で、アスカですが、これはもう、「やがて曲が終わる時」でイェルクと何度も寝て
しまった後、泣きながらシンジの名前を叫び続けたシーンに尽きます。
僕もまたLAS人の習性としてアスカの貞操に病的に拘る人間ではありますが、
「ある神話」においてはあのシーンは絶対に必須だった。
もし、アスカが処女のまま臨終しようものなら、僕はそれこそ「ある神話」を
砂漠谷さんが言う「人形劇としてのシリアスLAS」としか見れなかったと思います。
「虹」の方で何度も出てきた“ヒトである以上、肉の持つ性から逃れられない”
という人間いや動物の持つ“業”について…。
(この場合に生まれつき性欲が乏しい特殊なヒトの例などを引き合いに出すのは
勘弁して下さいね。)
アスカがイェルクに抱かれたのは、イェルクを愛しているからでなく、彼の男の“肉体”
が欲しかったから…、そして、そのコトに気づいたアスカは、肉の性の誘惑に負けた、
“女”としての自分自身の“性”を激しく嫌悪する。
(まあ、これさえも少し潔癖すぎるんじゃないのか…という気もしないでもないが…。
エヴァ本編のアスカはどう考えても“貞操”に拘るタイプの淑女には見えなかったし。)
どうにも僕は「ある神話」の“偉すぎるアスカ”には色々と違和感を感じますし、基本的
には“シンジ視点”でこの物語を見てしまうので、あらゆる選択肢を封じられたシンジ
に対して、いくらでも自由な選択肢が与えられていながら、その権利権を行使し得な
かったアスカに対して厳しい見解を抱きがちですが、こういう“人間の不健全さに対す
る葛藤”が描かれているからこそ、ぎりぎりの所でアスカに“人間”を感じることが
出来るような気がします。

というわけで、スタンダード(2)に基づけば、僕にとって、これほど魅力的なシンジ
とアスカのキャラクターを描いた作品は他にないのです。
やっぱり、まず“世界観”が先に立つ「ある神話」でも、シンジとアスカという
“キャラクター”に魅力が感じられなければ、“アスカとシンジの物語”としてエヴァ
を見る人間が、ここまでこの作品に拘ることは無かったでしょう。
勿論、スタンダード(1)の問題を無視すれば…という前提がついてくるので、
だからこそ自分は@の問題についてダブルスタンダードを持たざるえないわけです。
 

次にA(EOE後の状況として描かれた世界観に偽りはないか?)について入ります。

EOE後、世界はどう変わるか?
これは作者の主観と作品のテーマによって大きく変わると思いますが、僕には
こちらの方は“リアリティ”という観点から見ても、ほとんど文句の付けようがないです。
(僕も「二人の補完」の世界観の初期設定は一部「ある神話」を参考にしています。)

まず、“太平洋二人ぼっち”(総ての生物が朽ち果てた世界に二人だけ残された)
の特殊状況ではなく、ちゃんと人間が帰ってきて、
さらに、北斗の拳のような“世紀末原始人的暴力の荒野の世界“でもなく、
不完全ながら“社会”が維持されようとしている“文明世界”を描いていたこと。

総ての人間が現実に返ってきたわけではなく、戻ってこれたモノと来れなかったモノ
に分けられていたコト(その基準に関しては特に何も説明されていなかったが。)

シンジとアスカを“神”にせずに、一個の人間として設定して、さらにエヴァを
はじめとした、神々の遺産を総て消滅させ、“SF的何でもあり”の要素を一切
省いた上、一歩ずつ地道に歩を進めるしかない“地味な現実世界”を描いたこと。

エヴァという便利で特殊なアイデンティティを失ったシンジとアスカが、人間として
の“生身”の自分自身の知恵と肉体と心だけで、“現実”の世界と戦ったこと。

等数え上げると切りがないのですが。
(唯一の不満はアスカが世界政府総裁まで成り上がったことぐらいか。政治に無知な
自分にも、“頭が良いだけの純粋な子供のアスカ”が頂点に勝ち登れるほど政治の世界
は奇麗でも甘くもない…と思うのだが、まあ、僕の場合は単純に「アスカがシンジを
見下ろす」という“ある神話の構図”自体がシンジ至上主義者として気に入らないだけ
なのかもしれない。(苦笑))

けど、一番納得がいったのは、EOE後のエヴァというアイデンティティを失った
シンジとアスカという二人の元チルドレンに対する社会の評価(位置づけ)に、
すごくリアリティを感じたということですかね。
エヴァのパイロットとして見れば、シンジの方がアスカより優秀だったと思いますが、
エヴァは極めて特殊な状況でのみ効力を発揮するアイデンティティに過ぎません。
(補完計画が終了し、エヴァが消滅した後には、シンジとアスカのチルドレン時代の
二人の関係の優劣性は完全に消滅します。)

で、「ある神話」を例に取れば
エヴァが消滅しチルドレンで無くなったシンジはどこにでもいる極めて普通の少年に
過ぎない。(シンジ至上主義者としては大変不本意な評価ではあるが。(苦笑))
だか、国家(社会)から見れば無能な一少年にでも、“役に立つ使い道”はある。
それは、サードインパクトを起こした、“政治犯として死刑“にして、民衆の
不満を逸らす為のスケープゴートとして利用することである。
これなら、無能な少年である碇シンジ(でなくても実は誰でもいいのであるが)
にも務まるのである。
この場合、碇シンジに本当に罪があるのかどうか(実際にサードインパクトの責任は
シンジ一人が負うべきものなのか否か)は特に問題にならない。
また、たかが一少年の“人権”など、国家という規模から見れば然したる問題でもない。

逆にアスカの場合は、
エヴァが消滅しチルドレンで無くなったとしても、アスカにはシンジと違い、14歳で
大学を卒業した極めて優秀な頭脳(恐らくアスカは“数学分野”の天才なのだろう。)
があるので、技術畑の方面で色々と使い道がある。
だから、アスカの場合はどこかの研究所に勤務させるなりして、技術者として、何らか
の研究に従事させた方が、有効である。
(僕の勝手な主観では、EOE後のアスカの精神は相当壊された状態なので、(それは
シンジにも言えることではあるが)どう考えてもマトモな社会復帰が出来るような状態
ではないと思うのだが(アスカが最初にいくべきは研究所ではなく白い壁の中のような
気がするが)、それを言ったら話しが進まないので、この際、それは置いておきます。)

そんなわけで、「無能なシンジ」は、誰でも務まる戦犯として刑務所に放り込まれ、
単なるスケープゴートとして死刑にされかけて、「優秀なアスカ」は研究所で
MAGIの研究員として“研究者”としての職務が与えられる。

そして「ある神話」は最後までこの構図
“無能者としてのシンジ”と“有能者としてのアスカ”
に対する社会の位置付けとしての関係性を貫くことになり、最終的には
“誠実なだけの刑務所帰りの社会不適応者のシンジ”と“世界一の社会的成功者
(世界政府総裁)のアスカ”という隔たりまで、二人の関係性を引き離すことになる
わけである。

ようするに、何が言いたいかと言うと、以前うらかみさんの言説にあった、
「オルフェウスの窓」のようなロシア革命を絡めた大河ドラマの例の通り、
「ある神話」は世界観の物語として見れば、エヴァという特殊なアイデンティティ
を一切使うことなく、シンジとアスカの関係性に“世界そのもの”をうまく絡める
ことに成功した極めて魅力的なスーパー大河ドラマであるということである。
(EOEからの“素”のままのシンジとアスカが、この大河ドラマの配役に耐えられ
るキャラか否かについてはとりあえず置いておくとして…。)

……………なんか、うまく纏まっていない気がする。(何時ものことか)

まあ、僕が「ある神話」の世界観で最もリアリティを感じたのは、大河ドラマ
としてのスケール云々よりも、国家という単位から見れば、一個人
(碇シンジという一少年)の“人権”(人生)なんて、簡単に踏みにじられ
てしまう程度のちっぽけなモノにすぎない…という現実を痛く痛感させられた…と
いうことですね。
(キャラに人権?あるわけないよな。だいたい“人権”というのなら、主役だけでなく、
名も無いキャラも含めて総てのキャラに平等に認めなければ意味がない。
僕が「二人の補完」でシンジをメインに描いているのは、単純に自分はシンジが好き
だから、“シンジを特別に贔屓“して描いているだけですし。)
 

以上が
@(EOE後のシンジとアスカの心理描写を忠実に再現しているか?)
A(EOE後の状況として描かれた世界観に偽りはないか?)
の自分がEOE補完で重視するポイントに対する、「ある神話」に対する自分の主観的な
評価です。(全然論理的に纏まっていないような気がするけど。)

後編へつづく…。
 
 
 


【名  前】けびん
【タイトル】第三回「ある神話について(後編)」
  10/06 19:05
Mail: itirokai@gol.com
URL:
【メッセージ】
後編では再び「続編」から「本編」へ戻って話しを締めくくることにします。

上で書いた通り、僕にとって「続編」の展開は“イタイ”けど“最高”でした。
勿論、上記である程度証明した通り、破綻・矛盾点は探せばいくらでも出てくるのですが、
“人間の作るモノに完璧なモノなどありえない“という観点から見れば、十分許容範囲
内であり、もし「続編」の展開はそのままで、「本編」が、シンジがアスカに勇気を
出して会いにいって告白して、アスカはシンジを受け入れ、そして二人は結ばれた…と
いう筋の話しだったら、
「EOE後のシンジとアスカは本当に辛いことはあったけど、最後に長い苦労は報われて
二人は幸せになったんだな。」(本当に甘ちゃんだな、僕は…。(苦笑))
と満足し切って、自分の中のエヴァはとっくに終わっていたものと思います。

けど、現実として「本編」で突き付けられたエンディングは「二人は一生巡り合えない
まま死亡した。」という“現実”です。
なぜ、そうなったのか?
自分なりに、二人が“会いにいかない理由”について、考えてみたいと思います。
(作者から見れば極めて見当違いな「考察」をしているのは鼻から承知ですが、
僕は僕個人の主観に基づいて最後まで論述を書き上げるつもりです。)

まず、シンジ側の事情についての自分なりの考察…。
これは単純に、アスカに対する恐怖心からだと推測。
シンジは「アスカにもう一度逢いたい」という“想い“だけをたった一つの支えに
して、常に“死”と隣り合わせの本物の修羅場の中で、心を壊さずに生き続けて
きました。
この時から「アスカに逢うこと」は“彼の人生のたった一つの目的”(ライフワーク)
そのものに変化していたわけです。
(それを責めることは出来ないでしょう。そうしなければ、彼は間違いなく“壊れて”
いたわけですから。)
つまり、「アスカに拒絶されること」は、まさに「ある神話」のシンジにとっては“死”
と完全に同義語であり、彼の存在するアイデンティティの消失でもあるわけです。
で、アスカがシンジの事情について知ることが出来た程には、シンジはアスカの
事情については、分からなかった。
「いつか君に相応しい男性になってみせる。」
刑務所で、あらゆる成長のポテンシャルを奪われたシンジに、この言葉を呟くことは
永遠に適いません。
シンジにとっては、完全に一発勝負であり、今現在の自分をアスカが受け入れてくれない
のなら、今後も絶対に受け入れてくれる可能性は無いわけです。
で、自分は女を食わせることも出来ない、ボロボロに汚された社会不適応者であり、
相手は世界政府総裁という世界一の権力者。
(自然界の法則に従えば、“雌”を娶る“雄”として完全に失格ですね。)
刑務所でイェルクを相手に、「あなたは、自分の愛を、分相応の愛に限定出来るのですか?」
と言い切ったシンジがそういう、自分と相手の社会的な立場に負い目を感じたかどうかは
分かりませんが、アスカに拒絶されることにまったく恐怖を感じていなかった…と言えば
絶対に嘘になるでしょう。
ようするに、シンジはアスカが100%自分を受け入れてくれるだけの自信がなかった
ので、アスカに拒絶される可能性に脅えて、“僕はアスカに逢いたい。だから公園で
待っている”というメッセージを残して、完全にアスカに下駄を預けてしまったわけです。
アスカを待ち続けている限りは、決して拒絶されて自分が傷つくことはないわけなので、
残念ながら自分個人の卑小な殻の中に再び閉じこもってしまったと言わざるえない。
だから、僕個人の推測では、もしシンジがヒカリなりから、アスカの事情(アスカは
未だにシンジを愛している。アスカはシンジに負い目を感じているので自分から会い
にいけない、等)を知ることが出来たら、つまり「アスカは100%自分を受け入れ
てくれる」という確信をシンジが持つことが出来たなら、シンジは絶対にアスカに逢い
にいっていたと思います。

その考えを裏付ける論拠として、
本編で、シンジが臨終の手前で、アスカの手紙を読んでアスカの真意をはじめて知った時、
>どうして、無理をしてでも、すがってでも会いに行かなかったのか。
>結局逃げていただけなのか。
>全ては遅すぎた。全力で生きた、そう思っていたのに、その全てがもう間に合わない。
アスカの真意を知って、はじめて自分の人生の行動を後悔したところに顕著に現れてい
たと思います。

ようするにシンジ側の結論としては、シンジは「アスカに拒絶されるかも」という恐怖心
を力づくででも捻じ伏せて、逢いにいくだけの“心の勇気”を出すことが出来なかった。
(ようするに、負けるかもしれない…という敗北の可能性のある勝負に“自分の人生”を
賭けることが出来ずに、100%勝てると分かっている勝負しかシンジは出来なかった。)
だから最期まで、自分からアスカに会いに行くことが出来なかった…と解釈しています。
 

次に、アスカ側の「逢いにいけない」事情についてですが、アスカの場合はシンジとは
事情が些か異なります。
まず、アスカはシンジの気持ちを総て知っていました。
シンジが未だに自分を愛していることも、そして何よりシンジには、“自分を愛する“
以外の選択肢が存在しなかった…ということも。
僕はこの件に関しては、相当アスカに厳しい見解を持っており、真面目に書き出すと
切りがなくなってくるので論旨だけ簡単に纏めさせてもらいます。
このアスカの事情に関しては外伝「小春日和」で語られています。
(あくまで、“結論”を決めた後に、後から付け足しただけの理由であることは
重々承知していますが…。)

ここのところは重要なので、「小春日和」のアスカの心理描写より一部抜粋して、
自分なりの解釈も同時に入れます。

>確かに、シンジが釈放される前までは、お互いが余りに離れていすぎた事で、
>会ってもどうにもならない隔たりが出来てしまったと思ってた。

これは「やがて曲が終わる時」のイェルクと最後の会話をしたアスカが20歳の時の
心境ですね。(確かにこの時は、“絶望的なまでの住んでいる世界の相違”から
「多分あたしはシンジに会わない」と宣言していました。)

>でも、それは間違ってた。
>あたしは、それでもシンジの側に居て、シンジに近づこうとするべきだったし、
>そうしたいんだもの。
>シンジからメッセージを貰ったとき、あたしはやっとシンジをどうしようもない
>程愛している事に気が付いた。
>シンジが欲しい。

メッセージをもらった地点でのアスカは24歳。
この時、アスカは「やがて曲が終わり時」で、自身が感じていたであろう、
“自分とシンジとの間の絶望的なまでの世界の差”を「自分の本当の心からの気持ち」
に気がつくことによって、乗り越えたのだと思います。
(けど、人間は一度乗り越えたと信じた「同じ問題」について、再び何度も悩んでしまう
しょうがない動物ですから、アスカが再びこの問題をリフレインしてしまう可能性も十分
ありますが、(というより無ければおかしい)そういう予測まで要れるとさすがに切りが
なくなってくるので、もうこの問題ではアスカは悩まなかったと仮定させてもらいます。)

>でも、その後で知った。
>シンジを奈落の底に突き落としたのには、実はあたしも荷担してたことを。
>あのカールスルーエでの馬鹿な研究のせいで......。

このカールスルーエでの研究がいかなるもの…だったのかは、未だに描かれていないので
自分にもよく分かりません。
ただ推測するに、アスカがMAGIの研究資料を提出した為に、シンジの存在が日本政府
の目に止まる何らかの切っ掛けを作った(シンジ逮捕の引き金になった。)類の出来事だ
ったと思っています。
いずれにしても、これは全然アスカの責任ではありません。
カールスルーエでの研究が日本でのシンジの立場にいかなる影響を与えたかは推測の域を
出ませんが、それはあくまで、偶然の結果に過ぎず、少なくともアスカには
シンジを傷つけたい(不幸にしたい)という”悪意“がなかったことだけは確かですから。

>どうして会えるのよ。
>彼の全てを奪っておいて。
>今、シンジに会えば、きっとシンジはあたしを許してくれる。
>でも、シンジに他にどうできる?。
>許すしか無いところへ追い込んでい置いて、それで許されるの?。

このセリフから分かる通り、アスカはシンジが自分を受け入れてくれることを確信して
いました。
けど、シンジを不幸にしたのが自分だったので、この時のアスカには、
“シンジと一緒にいたい“(幸せになりたい)という想いよりも、
”自分はシンジと一緒になってはいけない“(自分は幸せになってはいけない)
という「内罰的な想い」の方が上回ってしまったわけです。

以上の考察から分かる通り、アスカがシンジに自分から逢いにいかなった理由は、
“シンジの不幸に対する自身の「安全と自由」に対する負い目“です。
そして、僕の場合、この問題もどうしても“勇気の有無”に還元してしまいます。
というのも、これほど内省的なアスカに、今まで不幸に不幸を重ねたシンジをせめて、
これから先は自分の手で幸せにしたい…という想いが欠片も存在しなかったとは
到底思えません。
ただ、それ以上にその結果として、“自分までがシンジと一緒にいられるという幸福“
を享受してしまう“その嫌らしさ”にアスカは耐えられなかったわけでしょう。
けど、だからこそ尚更乗り越えて欲しかった…というのが自分の正直な本音です。
本当に“シンジの為”を思うのなら最も「優先するべきモノ」は何なのかを、
“そこ”で思考停止せずに、もう少し勇気を出して考えて欲しかった。

以上が僕なりに考えたシンジとアスカがお互いに逢いにいけなかった理由です。
そして、これらを統合するとどうしても僕としては「ある神話」の物語は最終的には
“ほんの少しの勇気が出せなかったばかりに一生を台無しにしてしまった人生の負け犬“
の物語だったという、偏見を承知の上での“暴論”に辿り着かざるえないです。

ところで僕が“負け犬”という相当に辛辣な結論を述べたのは上記の理由意外に
もう一つ重大な理由があるからです。
(というより、二人が会えないまま終わったことよりも、その“終わり方”の
方にこそ自分は拘っているのかもしれない。)
それは「ある神話」本編のエンディングである「光で」の内容に尽きます。

「光で」の内容は、
死亡寸前で昏睡したシンジが、闇の中で14歳の姿のアスカに出会って、自身も14歳の
姿になって一緒に光の中へ帰っていき、そしてベッドの上の老人のシンジは安らかな笑顔
で死んでいく…という、まるで今までの辛い展開に対する最後のサービスのようなお話し
でした。

これ自体は特に問題ではなく、白状するなら自分も「続編」のラストでは似たような
エンディングを用意したいと思っています。
ただ、本当に我が侭な話しですが、“これ”が「ある神話」と融合した時、自分は相当
強烈な拒否反応を起こさざるえませんでした。
(ハッキリ言えば“逃げ”だとしか思えなかったから。)
これは僕の勝手な価値観ですが、僕は輪廻とか転生とか天国とか地獄とかいう死後の
世界の類の話しはまったく信じていないタイプの人間です。
僕にとって“死”とはすなわち永遠なる意識の喪失…つまり眠った後永遠に朝がこない
状態を差す事であり、死ねば人は全て土に帰ると思っています。
けど、だからこそ、僕の中では“生者”と“死者”は厳しく分けられねばならないモノで
あり、生きることと…或いは死ぬことを軽視する類の考えは嫌いです。

僕が“嫌悪”を感じたシーンは二つ。
それぞれ、コトなる視点から(「光で」が現実であった場合と、そうでなかった場合
について)語ってみることにします。

まずは、シンジの頭の中で14歳のアスカが言った、

>・・・・・・・ねぇ、でも、
>今はもうアタシ達ひとつになれるのよ!!
>ひとつになっていいのよ!!。

という言葉について(もし「光で」が現実であった場合。)
“今は”もうひとつになっていい…。
とすれば、生きている間はシンジとアスカは絶対に一つなってはいけなかった
わけでしょうか?
けど、それはアスカが勝手に自分で決めただけの話しです。
シンジの出所後には、誰もそれを二人に強制しなかったはずですから。
とすれば、「ある神話」が最終的に語りたかったコトは、“生きている間は絶対に許され
ないことも、死んでからなら何でも許される“という趣旨のことなのだろうか。
だとしたら、このテーマは“心中カップル”の主張とどの程度の違いがあるのだろう…。
いずれにしても、仮に死後の世界とやらが存在して、「光で」が“現実”の内容だと
したら「シンジとアスカの87年間の辛い”生”」はまったく無意味・無価値なモノ
であったことだけは確かなような気がします。
 

そして、自分にとってはこれが極めつけでした。(「光で」が“幻想”だった場合。)

>六分儀シンジは、子供のような顔をして死んだ。
>これまでにも、安らかな死に顔というものを見た事はある。
>しかし、これほど、少年のような清らかな顔は始めてだった。

もし、臨終したシンジに子供のような清らかな死顔を与えたのが、
“14歳の姿のアスカの幻影”だとしたら、自分にとってはこれほど
悔しいことはないです。
前述した通り、僕は“死後の世界”を一切信じないタイプの人間なので、
「光へ」の内容は酷い見解ですが「昏睡したシンジが臨終の際に見た自分にとって
都合のいいただの幻覚」として処理しています。
シンジは別に誰にでも簡単に手に入れられる“お手軽な幻想”を手に入れる為に、
73年もの間、一人でずっと苦しみ続けてきたのだろうか。
だから、“あれ”が最終的なシンジの求めていた“答え”だとしたらあまりに
情けなさすぎます。
ハッキリ言うなら、戦争に敗れて現実の財産を失って落ちぶれた貴族が、もう現実
の世界では絶対に再び取り戻すことが適わない、かつての栄華を恋しがって、空想の中
だけで、過去の“大切なモノ”を再現して、自分自身を慰める…のとレベル的に一体どう
違うのだろうか。

“綺麗な死”は別に問題ないと思います。
14歳の姿で1つになるっていうのは絵的には美しいと思います。
自分も老人になった自身が死の病床で思い出すのは、多分、その時の自分ではなく
若かりし頃の自分であるような気がしますので。

ただ、上記の理由で「ある神話」がそういうラストを採用した場合、
どうしても僕の狭量な価値観では、「人生の負け犬」という言葉を
拭うことは出来そうにありません。
(ようするに僕にとって「ある神話」は最高の“過程“と最低の”結果“が同時に描かれ
ていた作品だったということですね。)
 

総論。

色々意味不明なことを書き殴ってきましたが、僕が「ある神話」に反発するのは
極めて単純明快で、ようするに
「もし、僕がシンジだったら、こんな人生だけは絶対に送りたくない」
という自分にとっての最悪の人生がご丁寧に最期まで描かれていながらも、
EOE後の状況を考えると、シンジがそういう道を歩むのが、一番最もらしく
感じてしまったから、思いっきり抵抗しているだけなのです。(爆)
しのぱさんにとって、作中のシンジが理想の人生なのか分かりませんが、僕の
卑小な価値観では、続編地点はともかく、本編まで辿り着くと、今まで書きこんで
きた理由からどうしても“人生の負け犬の物語”にしか感じられませんでしたので。

ラスト

僕は「ある神話」は実はエヴァFF界最高のアンチLAS小説じゃないかと
勝手に思っていたりします。(反論者多数、賛成者ゼロは承知の上ですが。)

「シンジとアスカの物語」として“EOE”を見た者が、EOEから感じた
テーマは“シンジとアスカは絶対に一緒になってはいけない”という趣旨の
「絶対真理」のように思えてなりませんでした。
(だから、あの作品ではいかにシンジとアスカの関係性を壊すかに終始
していたように自分には感じます。)

で、「ある神話」は、その僕が偏見で考える「EOEの絶対真理」を最も忠実に
継承して、さらにその“絶対真理”を発展させ、
“シンジとアスカはお互いに愛していようと死ぬまで絶対に一緒になってならない”
というさらなる別の次元にまで昇華させた作品のように思えるからです。

正直、しのぱさんが提示したテーマに比べれば、総合で良く見かけるようなアンチLAS
論述など甘すぎますし、また、「どちらかが途中で死亡する。」「途中で別れてしまい、
それぞれ別なパートナーを見つける。」というような一見アンチLASに見える“イタイ”
作品も全然痛くなくなりました。

僕個人は別に「シンジとアスカが絶対に一緒になるのが“絶対真理”」なのだ…などとは
全然思っていません。
(自分はシンジ至上主義者ですから、シンジがあぶれないお話なら大抵読むことは
できますし。)
ただ、人間の性として、自分の気に入らない“絶対真理”を見せられると、“反発”を
感じてしまうだけです。
だから「二人の補完」では、EOEと「ある神話」の提示した“絶対真理”に逆らって
みただけの話しです。

色々と暴言を吐いてすいません。m(__)m
しかし、ネット上には、これほど自分好みのFFが溢れているというのに、それらを一切
無視して、自分の好みのと対極のFF一本に心が縛られる辺り、自分は本当に視野狭窄
ですね。
もう少し思考に柔軟性とバランスを持ちたいとは思っているのですが。
(「ある神話」を書きながら、同じEOEを出典としながら、二人が何の障害も無く結婚
するお話を描いた「扉を開けて」のような作品を同時に描けるしのぱさんの思考の
柔軟性がすごく羨ましいです。)

何にしても「絶対真理」は本当に言いすぎました。
前述した通り、自分と同じく、しのぱさんも「一つのテーマ」として「ある神話」を
書いただけなのは重々承知していたことなんですけどね。
なぜ、自分がここまで「ある神話」に縛られるのか。それは「ある神話」という作品は
「僕にとって最大級の“浪漫”(物語)」があったからだと思います。
(今まで何度も出てきた“浪漫”という用語の説明は次回行います。)
 

おまけ

以上が「ある神話」に対する自分なりの考察です。
(異常に長くなってしまった上で、論旨が全然纏まっていなかったので、最後まで真面目
に読んでくれた人がいたか疑問ではありますが。)

色々と問題な発言があったと思いますが、ご承知のように、僕の意見はたった一個人の
“偏見”に過ぎません。
だから、この自分の意見を「ある神話」の統一見解にしようなどというような馬鹿な
ことは全然考えいませんし、自分意外の他人がどういう意見を持ったとしてもその考え
を変えさそうという気も全然ないです。
ただ、偏見だとは承知していますが、それでも僕は「負け犬の物語」という「ある神話」
に下した評価を自分自身が変えることは絶対にないと思います。
(例え作者や周りから、どれほど説得力のある“反対意見”が提出されたとしてもです。)

ただ、自分の意見もまた“偏見”であることを知っているので、
「ある神話」の物語を“負け犬でなく人生の勝利者の物語”として見ることが出来るヒト
がいれば、是非その論拠を聞いてみたい…と思っていたりします。

実は自分が砂漠谷さんの「ある神話」に対する感想に興味を持ったのは、
もしかしたら、システムを始めたとした社会的通念の枠組みに一切捕らわれない砂漠谷
さんなら、システムの常識の範囲内の価値観でしか、「ある神話」を見ることが出来ず
に「負け犬」という評価を下した自分と違い、あの二人の生き方に「勝利者」としての
何らかの“意義“を見出せるのではないか…と勝手に期待しているからです。
(本当に辛辣な言い方ですが、「ある神話」のシンジとアスカの物語を“人生の勝利者”
として見るコトが出来るヒトはそうはいないでしょうから。)

というわけで、いつか砂漠谷さんの「ある神話」に対する「感想」が聞けるのを
楽しみにしています。
 

つづく…。
 
 
 


【名  前】けびん
【タイトル】第四回「“嘘”と“浪漫” “物語”は“現実感(リアリティ)”を越える?」
  10/06 19:02
Mail: itirokai@gol.com
URL:
【メッセージ】
前回は「ある神話」という作品の内側(物語の中)に入り込んでの批評だったので、
今回は少し毛色を代えて、「ある神話」を外側(物語の外)から眺めてみることにします。
つまり、なぜ自分は“架空の物語”であるエヴァ小説(ある神話)に、ここまで拘るのか?
自分にとって小説とはエヴァFFとは何なのか…、可能な限り論理的に纏めてみたい
と思います。

今まで何回も何の解説もなく使用してきた「浪漫(物語)」という単語の、自分なりの
解釈も今回簡単に行います。
とはいえ、今回の「浪漫(物語)」に関する論述は、万人に共通する一般定義を
定めるのではなく、僕個人に対してのみ有効…という極めて個人ベースの解釈に
過ぎないというコトを予め断わっておきます。
というのも、今回の論述は、不特定多数のエヴァFFファンをサンプルにして統計だった
解析を行ったわけでは無く、あくまで、今現在の自分の現実の姿(自分は架空の物語に
病的に拘る)のみをサンプルにして、その理由を自分なりに考えて、論理的に問い詰め
ていこうとしているだけだからです。
だから、これからどういう結論が出たとしても、その自分の解釈をネット界の一般定義
として布広させたい…というわけじゃなく、自分自身の行動を納得させる為の、単なる
“自己分析”に過ぎない…ということを理解してもらえたら幸いです。

まあ、こういう言い訳がましい前置きは、読んでて飽きるだけだと思うので、そろそろ
本論の方に入ります。
 

まず「小説」とは、もっと突っ込めば、エヴァFF(ファン・フィクション)とは何か?
という前提条件について考えてみることにします。
もし、自分が上記のように聞かれたら、多分自分は、
「小説(フィクション)とは、その名前の通り、“実体を持たない架空の物語”
つまりは、“良く出来た作り話”であり、極論してしまえば、単なる“嘘”に、
いかにも“現実っぽい化粧”を施しただけの文章の羅列にすぎない」と答えると思います。
(上記の意見は「人間とは何だ?」と聞かれた時に、「人間とは単純な蛋白質の固まりだ。」
と答えるような極めて無機質な解答ではありますが、それがもっとも単純な“本質”
でないかと自分では思っています。)

“嘘”
そう、小説は総て架空の“嘘”のお話しなのです。
“伝記”などの場合は多少、ニュアンスが異なるのかもしれませんが、それでも
必然的に作者の主観と虚構が文章に入り交じる地点で、“実際の現実の姿”から
少しずつ離れていくのは否定出来ない。
また、仮に、“現実世界での作者の実体験の一部”が作中に込められていたとしても、
それを確認する術を持たない読者にとっては、それはやはり良く出来た架空の出来事と
して扱われます。
つまり、一見“リアリティ”を強く感じさせる良く練れた世界観とキャラクターを
生み出した傑作なお話も、
世界観にもキャラクターにも全然リアリティの欠片も感じられない、ひたすら作者の妄想
全開のような下手なお話でも、
あくまで“嘘”を描いている…という意味においては両者は完全に同じなわけです。
違いがあるとすれば、その“嘘”が、読んだ人間にとって
一瞬、まるで本当に起こった出来事かと錯覚してしまうような“上手な嘘”
だったか、
あまりにも設定が現実離れすぎていて、全然信じる気になれない“下手な嘘”
だったかだけの違いでしかないわけです。
 

今は亡き藤子・F・不二雄先生の異色短編集の中に「征地球論」という作品があり、
その中の一節に面白いことが描かれていました。

以下、地球を征服しようと考え、その前段階として地球人の生活習慣を調べようとした
宇宙人達の会話です。

宇宙人A「おい、あの地球人が読んでいるのは何だ?」
宇宙人B「ああ、あれは“小説”とかいうモノだ。」
宇宙人C「小説?」
宇宙人B「何て説明すればいいのかな。とにかく“嘘”をもっともらしく取り繕った
     モノだ。“文字”というのを情報認識の為の伝達手段として利用するらしい。」
宇宙人A「“嘘”と“分かっている”のに読むのか?」
宇宙人C「本当に地球人というのは我々の理解を絶した種族だよ。」

このように、地球人とは快楽原則が著しく異なり、物事を“機械合理的”にしか“解析”
出来ない宇宙人にとっては、“嘘”と知っていながら、その架空の物語に一喜一憂して、
小説を読んでいる地球人の精神構造がまったく理解出来なかったわけです。
 

では、小説とは“嘘”なのだから、そこに描かれているコトには意味は無く、
小説を読むのはまったく無意味なコトなのか…と聞かれれば、そんなことは
絶対に無いと自分は思います。
宇宙人には“理解不能”な現象でも、彼らとは歓楽原則が異なる地球人には、
“地球人なりの理屈”があって、小説を読んでいるからです。

その“地球人なりの理屈”をこれから簡単に纏めてみたいと思います。

僕にとって、なぜ自分が「ある神話」の“嘘の物語”に拘るのか、長い間抱え続け
てきた大きな謎でした。
「ある神話」という作品自体、前回の論述である程度証明した通り、“完璧”
という表現からは程遠い、少なからぬ破綻や矛盾を抱え込んだ、極めて不完全な
物語であるのに、それでも、なぜか自分はこの作品を無視出来ない。
それは、やっぱり「ある神話」が小説という形態を取って、一つの世界を築き上げ、
その世界の中で、“ EOE後のシンジとアスカは死ぬまで絶対に一緒にはなれない”
という自分の好みから外れる物語を走らせたからだと思います。

だから、もし、しのぱさんが書いたのが小説(物語)ではなく、単なる論述だったら…、
つまり「EOE後のシンジとアスカは絶対に一緒にはなれない」…というような主旨の
アンチLAS論述だったとしたら、(勿論、しのぱさんがそんなことをするはずもないが…。)
仮にその内容がどれほど完璧で、論理的に反論するのが不可能なほど完成度の高いモノ
だったとしても、「そういう風に考える人もいるんだな。」で終わってしまい、特に
拘るコトはなかったと思います。

「ある神話」が小説(物語)で、一つの世界観を作り上げ、その世界の中で、物語を
走らせたからこそ、その世界の中にどれだけの破綻や矛盾が存在したとしても、自分
には、その世界に住む架空のキャラクター達の生様を、まるで現実に起こった我がコト
のように感じることが出来てしまい、
(自分は、死の恐怖に脅えながら生き続けてきた、刑務所内での十年の地獄の生活、
さらに出所後、死ぬまでアスカを待ち続けたシンジの苦悩の人生を、まるで自分自身が
体験しているかのようにリアルに感じることが出来ました。)
その“生様”が自分の“趣味”とは対極にあった為に、この“物語”を全面肯定すること
ができずに、自分は「ある神話」にここまで“反発”し、拘り続けていたのだと思います。

僕はこの、作中の“些細な矛盾・破綻・或いはリアリティの欠如”を補って余りあり、
“嘘”をまるで現実の出来事のように読者に体感させる小説(物語)だけが持つ特異な
パワー(魅力)を、自己流に“浪漫”(物語)と定義しています。

上述した通り、この“浪漫”の持つ強力なパワー(魅力)は、或る意味“リアリティ”
さえも、はるかに上回るように自分には感じられます。

例えば、「ある神話」で、自分が最もリアリティが感じられなかった設定の一つに、
アスカが裸一貫から最終的に政治の世界の頂点(世界政府総裁)を極めた…という
のが有ります。
正直、続編「やがて曲が終わる時」でのアスカの社会的なポジションの変化のスピード
が極めて説得力がある妥当なモノに感じられただけに、
「小春日和」(アスカがたった26歳の地点)で、すでにアスカは世界を動かすだけの
力を手にしていたらしい…というかなり荒唐無稽な設定や、
さらに、奇麗ゴトだけで手に入れるのは絶対に不可能な世界一の権力者の座を、
“「有能だけど純粋な善人」としてしか描かれていない「ある神話」のアスカ”が手に
した辺りに全然リアリティが感じられなかったのが個人的にはやや残念なところでした。
この場合、最終的なアスカの社会的ポジジョンが“世界復興に多大な貢献を残した
有能な一女性議員”で終わっていれば、十分リアリティの許容範囲内であり、自分の
ような偏屈な読者としても何の文句もなかったと思います。

ただ、「ある神話」の異色なドラマ性を際立たせるには、アスカが“有能な一女性議員”
では些か迫力不足である…というのは自分にも納得出来ます。
やはり、ここは、「世界一の権力者アスカ×誠実な無能者シンジ」という“超対極”まで
二人の関係性を引き離してこそ、「ある神話」という世界スケールの大河ドラマが映える
というものであろう。(本当に“狙いすぎ”の設定ではあるが。)
そう、時には作品の持つテーマとドラマ性の為に、一部のリアリティなど無視した方が
より魅力的な世界を築ける場合もあるということである。
さらに、前述した浪漫(物語)の力は、些細なリアリティの欠如(この場合はアスカの
最終的な社会的ポジション)などまったく問題にせずに、読者を物語に中に惹き込む
強烈な魅力(パワー)があります。

そういう意味では「ある神話」のメインテーマである
“お互いに愛していながら一生巡り合えない二人”という設定に現実味が或るか否か
(つまり、14歳の時から一度も直接会話を交した事さえ無い男女が、老衰して死ぬまで
の間、一度も変節せずに(ましてや双方向で)お互いを愛し続けることは現実的に可能か?)
というのさえも、まったく問題として挙げる必要はないのです。
(自分も前回の論述でもこの設定に対するリアリティの有無は問いませんでしたし。)
“シンジとアスカがお互いに愛していながら決して一度も再会することなく死亡する。“
という、常人離れした発想とスケールで表現された、圧倒的な“浪漫”(物語)こそが、
この作品に共感した人間を、得体の知れない怒涛の迫力の渦に巻き込み、作品世界の虜に
してしまう強力な魔力を生み出すからであり、その“浪漫”(物語)の前では微々たる
リアリティの有無など、極めて些細な問題に過ぎないからです。
 

ようするに、何が言いたいのか言うと、小説に限らず、映画・アニメ・漫画等で語れた物語
には、時には“演出”の為に意図的にリアリティを無視する場合もあったりする…という
ことで、それは決して、その物語の魅力を損なわせるものじゃないということです。

「ある神話」だけだと分かりづらいと思うので、いくつか別な例を挙げてみることに
します。

例えば、総合でも話しに出てきた「カリオストロの城」(自分もあの作品は大好きです。
僕もあのラストに不満はなく、ルパンとクラリスが別れるのは自然な流れだと思っています。)
で有名な“壁走り”(ルパンが90度の垂直の壁を真下に向かって走る続けるシーンのこと)
のシーンで、「あの“壁走り”は三次元世界の物理法則に照らし合わせて可能なのか?」と
いう主旨のテーマを真面目に議論しようとする人はほとんどいないでしょう。
(少なくとも“壁走り”というリアリティ無視の破天荒なシーン一つが「カリオストロの城」
という物語の総てを台無しにしてしまった…などと指摘する人はまずいないと思います。)

さらに手近な例を挙げれば、エヴァの第二十三話「涙」で、第十六使徒アルミサエルに融合
されかけた綾波が、「これが私の本当の気持ち。碇君と一つになりたいという私の気持ち」
と生まれて初めて涙を流すシーンでも、LCLという“液体”で満たされたエントリプラグの
中で、レイの“涙”だけがポタポタとレイの腕に零れ落ちるのはどう考えても可笑しいわけ
ですが、これまた、演出上、細かいリアリティを無視してでも必要なシーンだったわけです。
(まさかスタッフも気づかなかったなんてことはないだろうし…。)
 

また、仮に作者が意図しない矛盾(リアリティの欠如)が、物語中に発生したとしても、
それをはるかに上回る“浪漫”(物語)が作中で語られていれば、読者はそんなことは
全然気にせずに物語についてくると思います。

これまた一例として、「カイジ」というヤング・マガジンで連載している漫画の第二部
で出てきた「橋渡り」の描写を上げてみます。

「カイジ」を知らない人の為に少し説明を入れると、第二部の「橋渡り」とは、
とある金持ちが、借金で首が回らなくなった若者ばかりを集めて、彼らの借金を帳消し
にする賞金(2000万円)を出すのを条件に、高層ビル(高さおよそ80m)の屋上
のビル間に掛けられた、全長25m、横幅15cm足らずの鉄筋の橋の上を渡らせる
一攫千金のゲームのことです。
もし、足を滑らせて、鉄筋の橋から落ちようものなら、80mの高さからまっさかさま
に地面に叩き付けられるわけですから、100%の死が待っているわけで、まさに
命懸けです。
そして、一部の金持ち達は、借金から解放されることを夢見て、命懸けのゲームに挑む
若者達が、橋渡りの途上で、死の恐怖に負けて、筋肉が硬直して動けなくなり、
一人…また一人と足を踏み外して、泣きながら恐怖の表情で落下していく様をショーと
して鑑賞する…というかなり悪趣味なお話です。

僕がこの漫画で気に入っているのは、追いつめられた人間の感情を相当リアル
(あくまで自分が感じる)に描いていること。

「これさえやり遂げたら、あの忌まわしい借金から解放される。」
無け無しの勇気を振り絞って、力づくで死の恐怖を押さえつけた若者達は、死と隣り
合わせのレースに挑んでいく。
だが、橋を渡る途上で思い出す。
もし、失敗したら、紛れの無い“死”が自分に与えられるという“現実”を…。
その“死の恐怖”は、若者達の身体を縛り、死神に取り付かれた心弱き者から次々
と滑り落ちていく。
目の前で発生した“仲間の死”が、さらなる死の恐怖を生み、周りにパニックを与え、
連鎖反応的に次々と人が落ちていく。

「金もいらない…。何もいらない…。40まで借金でもいい。
生きたい…。ただ、生きたい。死にたくない。
俺は馬鹿だ。こんな当たり前のことに、ここまで追いつめられないと気づかないなんて…。」

正直、未だに現実世界で“死の恐怖”を体験したことが無い自分には、これが本当に
“死の寸前まで追いつめられた平凡な人間の心境”として正しいのか分からないですが、
自分が想像の中で考える人間のリアルさ…がそこにあった。
(これは「ある神話」の“虹”で感じた、シンジや死刑囚達の感情のリアルさにも
通じるモノがあります。)

ところがです。
それからカイジ系のHPの掲示板でこんなカキコを見かけました。

「ワタシは金属材料を専攻したものですが、加工精度や実際の設置、重さによる変形を考える
とあの橋は相当無理があると思います。
そこがいいところなのか、こだわるべきなのかは意見が分かれるところでしょうか。」

他人の情報を頭から信じ込むのは危険ですが、もしこの専門家の情報が本当だとしたら、
(多分本当なのだとは思いますが)カイジの橋渡りの物語は、三次元の物理法則上絶対に
成り立たない…ということになります。
つまり、リアリティの観点からすれば、完全に“嘘”になってしまうわけです。

けど、この場合、このたった一つの“リアリティの欠如”は、カイジが持つ物語の総て
(魅力)を否定してしまえるほどの意味(力)を持っているのか…という疑問が出てきます。
カイジを読んだ時にまるで自分のコトのように感じることが出来た、死を隣り合わせにした
人間達の感情のリアルさ…雰囲気、緊迫感。
たとえ、カイジの物語は、三次元の現実の世界では再現不可能な、“虚実”だとしても、
あの時我がことのように感じた世界観と人間の感情のリアルさまでが“嘘”だったとは
絶対に思えない。

ようするに何が言いたいのかと言うと、他人を頭から巻き込めるだけの壮大な浪漫(物語)
は、時に微々たるリアリティ(の欠如)を大きく上回って、読者を作品世界の虜にするだけ
の魅力(パワー)があるということです。
 

そして、何よりも肝心なのは、一旦「浪漫」を持って動き出した物語は、これは一つの
確乎たる「世界」であり、その世界は外側から、多少の矛盾・破綻を指摘して突ついた
ところで決して簡単に崩壊する程度の柔な代物ではない…ということです。
(自分にとっては「ある神話」がまさにそうでした。)

初めて、「ある神話」という、自分にとって最大級の“浪漫”と、最悪級の“結末”を描いた
物語(世界)を見せられた時、その“反発”の仕方の一つとして
「ある神話」を論理的に批評して、物語中の些細な破綻・矛盾点を見つけ出して、その物語の
世界観の前提条件とキャラのリアリティに“ケチ”をつけるのは意外に簡単なコトでした。
(自分のような論客と称するのさえおこがましい、知識と表現力に乏しい人間にでも
簡単に見つけられたわけですから。)

当たり前のことですが、どれほど良く出来た完成度の高い物語にも、否、完成度の高い
物語であればあるほど、意図的であるか否かを問わずにそこに必ず作者さえも予期し得ぬ
矛盾が発生する可能性は高くなります。
創作とは何もない白紙の空間に、個人の想像力でだけで、“一つの世界”を築きあげる
わけですから、(二次創作の場合、原典の初期設定を一部使用出来るだけに、一次創作に
比べれば、多少楽かもしれない。)その世界(物語)が奥行きと深みを増せば増すほど、
自ずと意図せぬ破綻・矛盾が生じる可能性が高くなるからです。
だから、自分がEOE続編で最も高い完成度を持つと思っている「ある神話」にしても、
前回の論述で示した通り、いくらでも破綻・矛盾点を見つけることは出来ました。

ただ、自分は「ある神話」の“リアリティの欠如”を指摘して、一部の“イカサマ”を
明るみにすることは出来ましたが、それでも一旦動き出した物語が作り上げた「ある神話」
の世界を否定することも、何よりも、僕個人がまるで、現実に起こった我がコトのように
体感することが出来た「ある神話」の持つ”浪漫”を打ち消すことも出来ませんでした。

それは前述した通り、一旦「浪漫」を持って動き出した物語は、これは一つの確乎たる「世界」
であり、多少の矛盾を指摘した所で、その「世界」を揺るがすことなど出来ないからです。

第二回目の論述「エヴァFFとの出会い」で自分が「ある神話」を見知った当時に、Bの選択肢
“総合でよく見掛けるような「ある神話」の批評論文を作成して、「ある神話」がEOE
 後の物語としては説得力が無い…というような主旨のことを論理的に証明する。“
を選択しなかった理由は、上記の通りです。
結局、論述により、「ある神話」を論理的に批評し、些細な欠点をまるで鬼の首を取った
ように指摘して、あげつらったところで、何ら自分の中の世界が変わるわけじゃないことに
気づいてしまったからです。

自分にとっては、“何かを否定する”場合には、それに変わる“別の何か”を提供する
コトが出来て、そこではじめて、自分の中の世界を変えられるのかも知れません。
“北風と太陽”を例にすれば、自分は“北風の物語”(ある神話)を否定したいと思いました。
だとすれば、単純に、北風の遣り方を批難するだけでなく、自分自身が“太陽の物語”
(つまり「二人の補完」のことです。)を描いて、“北風とは別な遣り方“を示してこそ、
はじめて、“旅人のコートを脱がすという目的”(この場合はEOEからのシンジとアスカが
一緒になる物語を指す)を達成するコトが出来るからなわけです。
 

結局、僕にとっては、自分の中に巣食っている「ある神話」が持つ“浪漫”を否定出来るのは、
“論述による矛盾点の指摘“ではなく、「ある神話」が持つ“浪漫”を上から塗りつぶせる
ような、別の“浪漫”を正面からぶつけるしかなかったわけです。
それが、自分が当時「ある神話」の否定論述を書くよりも、「二人の補完」という物語を
自分なりに書く道を選択した理由です。
(じゃあ、なぜ今になって、自分にとっては無意味と分かっている“論述”を書くのだ?…と
言われれば、それは自分の中にある燻っているモノに整理を付ける為だと思います。
未だ自分の中のエヴァが終わっていないにも関わらず、最近自分は小説(物語)を書けなく
なってしまったもので。(汗))

尚、この上記の結論は、論述を書く前に前提条件として提示したように、決して一般論では
無く、あくまで「僕個人に限定」したお話しです。
僕としては、自分が納得出来る“浪漫”を持った物語を自分なりに書く以外に、“自分の中
のエヴァ“に決着を付ける方法を見つけられなかったが為に、素人身の程知らずを承知の上
で“下手な小説”を書いているだけだからです。
(何しろ、「二人の補完」を書き始めた当初は、とにかく、EOEを出典として「ある神話」
よりもリアリティの高い物語を作って、その上で二人がハッピーエンドになるような
お話を作ろう…と本気で思いこんでいましたから。
今にしてみれば、本当に身の程知らずな野望でした。(汗)
或いは“無知”は究極の“知恵”に通じる…という奴かもしれないです。)

だから口酸っぱく宣言したように、この“自分にとっての結論”を一般論として当て嵌める
つもりもありませんし、「論述批評」が「作品(物語)を書く」ことより劣っているなどと
いうつもりも、全然無いです。
何よりもあくまで、“自分個人”は論述によって自分の中のエヴァにケリを付けられそうに
ないだけなので、論述によって、自分にとってのエヴァ(この場合世界でもキャラでも、
どちらでもいいが)の“真実の姿”を表現することによって、自分の中のエヴァにケリを
つけられる人も中にはいるのかもしれないですから。
 

………長くなってきたので(相変わらず全然纏まっていないのは何時ものことだが(汗))
そろそろ総論に入ります。

『“小説”は総て“嘘”をもっともらしく描いただけのモノに過ぎない。
だが、その“嘘”の中に“浪漫”(物語)を感じることが出来た場合、その“上手な嘘”は
その読者にとっての“真実”に成り代わる場合もある。』
というのが、自分自身の実体験(自分は架空の嘘の物語をまるで現実のように感じてしまう)
から導き出した、エヴァFF(ファン・フィクション)に対する、自分なりの一つの結論です。
 

じゃあ、読者はどういう作品に“浪漫”(物語)を感じるのか…と言えばこれは難しい。
レシピは絶対に存在しないでしょう。
人の好みは千変万別ですし、内容だけでなく文章との“相性”も多いに絡むところらしい
ですし…。
ただ、一つだけ言えるのは、作品に自分なりのテーマ(この場合ギャグなら“他人を笑わせる”
というのでも良い。)を盛り込んで、その作品に浪漫(物語)を感じてくれる読者を見つける
ことが出来たら、それで十分なのではないか…ということ。
(まあ、何にしても、作品の整合性やリアリティよりも、“浪漫”(物語)を優先してしまう
自分は、やはり議論の相手としては相当不適切なような気もします。)

そんなところです…。
(相変わらず落ちてない(汗))
 

注:今回の論述を書くに当たって、しのぱさんから頂いたメールに書かれていた記述の一部
(“小説”に関するしのぱさんなりの定義)を参考にしたことを予め断わっておきます。
正直、しのぱさんの論述は自分の行き当たりばったりな主張に比べたら、当社比で、10倍
ぐらい分かり易く且つ説得力に富んでいたのですが、一応しのぱさんから転載の許可は頂いて
いるとはいえ、それをただ、そのまま“丸写し”するだけでは何の進歩もないように感じた
ので、今回“自分なりの言葉”で語ってみた次第です。
 

つづく…。
 
 
 


【名  前】けびん
【タイトル】第五回「『ある神話』のアンチテーゼとしての『二人の補完』」
  10/06 18:59
Mail: itirokai@gol.com
URL:
【メッセージ】
今回は「ある神話」に対するアンチテーゼ作品として見た場合の「二人の補完」の
論述に入ります。
自分で自分の作品を自己批評するというのは、或る意味相当滑稽ではありますが、
(ましてや、どうしたって自分の作品に対しては甘くなる点が色々出てくると思うので
どう考えてもファアじゃないですし)人様の作品(ある神話)に対して“イカサマ”
をはじめとした過激な言葉を使って好き放題に散々酷評しておきながら、自分の作品の
欠陥には触れられたくない…というのでは筋が通らないと思うので、僕個人が考える
自作品の短所・長所について簡単に纏めてみるつもりです。

尚、自分の作品は大まかな構成で、前章・後章の二つに分かれていて、且つそれぞれの
章は、各々異なった目的で書かれているので、各章ごとに纏めてみます。

(1)前章「AIR」編

一年連載の「二人の補完」の中で、前章が占める掲載期間はたったの一月チョイ。
さらに一話のバイト数は、ほぼ後章一話の半分以下という容量の少なさですが、
後章より前章の方に価値を置くヒトは多いです。
というよりも、もし「二人の補完」を後章の地点(EOEより三年後)からいきなり
スタートさせていたら(つまり前章が存在しなかったとしたら)、誰も自作品を評価
していなかったと思います。
 

まず、先に自作品の決定的な短所について述べるなら、第二回目の論述で語った、
自分がEOE続編で重視するポイントの一つである、
AEOE後の状況として描かれた世界観に偽りはないか?
という「ある神話」に自分が満点に近い評価を与えた二番目の方の条件に、自作は
思いっきり引っ掛かっているような気がすることです。

EOE続編の世界を描く上で必須条件の一つと思われる、EOE後の政治的状況の変化
(チルドレン・ネルフに対する政府の対応)に関しては、自作では前章第三話
「大人達の戦い… 子供達の想い…」で完全に終了しています。
(それ以後、政治的暴力を匂わせる描写は何度か出てきますが、あくまで匂わせる
だけで、それが直接シンジの身に降りかかることは皆無です。)

自分はプロットとして、シンジとアスカを政治的思惑に関わらせるのは、完全に
破棄していますが、理由は以下の通りです。
(1)EOE後のシンジとアスカのプロパティの見切り
僕個人の主観では、EOEからの“素”のままのシンジとアスカが、自力で政治的暴力を
乗り越えるのは、二人の人格に相当都合の良い“イカサマ”を用いない限り“不可能”
だと感じたので、自分の心を偽ったモノだけは絶対に書きたくなかったので、まずは
壊れた子供達を庇護する為の“温室”を準備しました。
(2)求めるテーマ性の差異
政治的暴力に縛られて、刑務所の中であらゆる人生の可能性(ポテンシャル)を奪われて、
何一つ自分で自身の人生を選択することが出来ずに、それでも、その強いられた運命
の中で懸命に誠実に最期まで生き続けたシンジの物語はすでにしのぱさんがやった
“テーマ”だったので、自分はそれとはまったく異なった“自分なりのテーマ”を
掲げてEOE続編に挑んでみたかったので、比較的シンジに自由な選択肢を与えて、
その中でシンジが自分の意志によって、EOEの罪に自ら向き合うような物語を作りました。
(3)僕個人の政治的知識に関する欠如
恥ずかしながら、これ系統の作品を書くには正直、自分は政治・経済に関する
知識・経験が相当不足しています。
知らないコトを知ったかぶりして、いい加減な“出鱈目”を書き込むと、後でえらい
恥をかくのは目に見えているので、(料理の描写でもえらい恥をかいたことがあるし(汗))
自作品の本筋でない政治的思惑に関する部分に関しては、普通の“素人”なら特に
違和感を感じない程度の“もっともらしい”流した描写に徹しました。

以上の三点が、自分が自作内で政治的暴力を抑えた自分なりの理由です。

だから、自作内で唯一政治的思惑について描かれていた前章第三話の展開は、自分個人
の政治的知識に基づいて描かれているというよりは、単純に「ある神話」をベースにして、
“ある神話のシンジ”が政治的暴力に巻き込まれた理由を自分なりに分析して、
「だったらどうすればシンジは“政治的暴力”に関わらずにすむか?」という観点から、
シンジが政府から興味を持たれるような“理由”を、御都合主義にならない範囲で
一つずつ“削除”していった結果にすぎません。

というわけなので、少し政治方面の知識に秀でたヒトなら、「サードインパクト後の
世界で、旧ネルフの生き残り(冬月達)だけで、日本政府を相手取って交渉して、
委員会のような独立した政府と対等の地歩を築き上げることなど本当に可能なのか?」
という物語の前提に対する疑問を提出することも十分可能だと自分では思ってます。

尚、自分にはこの上記の設定に本当にリアリティがあるかどうかは、そのコトを考察
する為の政治的知識が相当不足しているので正直分からないです。(苦笑)
そんなわけで、以前小猫のオフ会に参加した時に、実際にお役所に勤めているT.OKAさん
に自作の世界観のリアリティについて聞いてみたことがありました。
その時のT.OKAさんの答えは
『「二人の補完」はシンジとアスカの関係性を最重要主題として自分は見ているので、
世界観とかのそれ以外の要素は大体流して読んでいます。
自分も“そういう所”に勤めているから分かりますけど、自分だったら、総てのコトが
終了したら、後腐れがないようにシンジもミサトも消してしまいますから。』
と涼しい顔でおっしゃっていました。(大汗)
やっぱり政治の世界は“甘くない”のだな…と改めて痛感した瞬間でした。

それ以来、作品内の世界観に関しては、“鯨が空を飛ぶような無茶”
(ようするに日本政府が“基本的人権に基づく純粋たる善意”からシンジとアスカ
という子供達の未来を憂いて保護する…などという類の設定)さえしていなければ
まあ、それほど深く気にすることもないか…と開き直るようになってしまいました。(爆)

だから、自分が掲げたEOE続編で重視するポイントの一つである、
AEOE後の状況として描かれた世界観に偽りはないか?
という観点で見れば、いきなり二人が問答無用に生き地獄に放り込まれた「ある神話」
とはまったく対照的に、「二人の補完」内では、前提としてシンジとアスカは、サード
インパクト後の荒廃した世界から切り離された温室内で、大人達に大切に庇護されて
育てられていたわけですから、相当“甘口”であると言わざるえません。
もし、この設定そのものを“有り得ざるイカサマ”だと言われたら、「二人の補完」
というお話しそのものが成り立たなくなってしまいます。僕にはEOE後に自力で
立ち直るシンジとアスカの姿をどうしてもイメージすることが出来ませんので。(汗)

まあ、自分としては、自作のEOE後の世界観の甘さは御都合主義というよりも、
“テーマ性”の差異に属する分野なのですが、それを言うなら、「ある神話」のシンジ
とアスカの心理描写がEOEを考えるとイカサマに見えるというのも、しのぱさんに
とっては、“それはどうでもいいコトだった”というだけの、これまた“テーマ性”の
差異に属する分野になるわけで、本当に、天に唾する…というわけでもないですが、
自分が唾した言葉は必ず自分自身に降り掛かってくるモノですね。(苦笑)

ではそんな“甘い世界”の中で、自分はこの作品で一体何を表現したかったのだ?
…と言われれば、それは間違いなく、自分がEOE続編で最も重視するポイントである、
@EOE後のシンジとアスカの心理描写を忠実に再現しているか?
に基づく、
『EOEからの“素”のままのシンジとアスカが、自然な形で立ち直って、再び
一緒になるまでの“過程”を見てみたかった。』
本当にその一言に尽きると思います。
 

第二回目の論述でも述べた通り、
EOEそのものに興味が無いのか、それとも、自分とはEOEに対する見解が根本的に
異なっていたのかは分からないですが、読んでて“面白い”又は“素晴らしい”と
感じたEOE続編は数多く有れど、EOEからの“素”のままのシンジとアスカ
(あくまで僕個人の身勝手な主観で考える)を忠実に描いたヒトは誰もいなかったよ
うに自分には感じられたので、自分は“それ”をテーマに掲げて作品を書いてみようと
思った次第です。

尚、僕個人が考えるEOE後のシンジとアスカのプロパティは

シンジ…極度の無気力&対人恐怖症に陥る。とにかく世界と他人が恐くてしょうがない。
けど、アスカ“だけ”は恐くないらしい。理由はこの時のシンジはアスカを人間とも
異性とも見なしていないから。(ようするに人形というより“逃げ場”なんだろうな。)
EOE後のアスカがシンジを“無条件に受け入れる”という発想は僕には絶対に思いつか
ないが、この時のシンジは本当にアスカに“依存することでしか”生きられないのだろう。

アスカ…“壊された!”
アスカの状態に関しては本当にこの一言に尽きる。
本編で一度自身の存在意義を消失して廃人同様になり、弐号機の中で“母親”を感じて
一度“偽りの再生”(このアスカの復活の仕方が臨床心理学に照らし合わせてリアリティ
があるかどうかは取りあえず置いておくとして)を果たすも、最終的にはそのたった一つ
の心の拠り所であった母親さえも永遠に失い、なんら内省しうる根拠を与えられないまま
“残酷な狂気の死”を与えられ、その後、無理矢理現実に引きずり戻されたと思ったら、
シンジに絞殺されかけて“気持ち悪い”。(う〜ん。まさに地獄のフルコースだ(汗))
正直、EOEを見て、その後のアスカが何の脈絡もなく、まともな社会復帰を果たせると
思っているヒトがいたら、嫌みではなく、その見解を羨ましく思います。
自分にはEOE後のアスカ像にはまさしく“狂人”以外のフレーズがまったく思い浮かび
ませんでしたので、「二人の補完」の前章ではそのイメージに忠実にアスカを書いてみたら
ああいう“いかれアスカ”が出来あがってしまったわけですから。(苦笑)

以上が一応、自分なりのEOE後のシンジとアスカのキャラ観です。
(あくまで僕個人がそう感じただけの話しなので、この意見を無理矢理他人に押し付け
ようとか、EOE後のシンジとアスカのキャラ観の統一見解を図ろう…とか考えている
わけじゃないことを御理解ください。)
それでもって、この自分なりのキャラ観に基づいて、そこから物語を組み立てようと
すると、シンジとアスカが、自力で立ち直るというプロットを早々と破棄することに
なり、まずは冬月達ネルフの生き残りに“温室”内で庇護されることになりました。
(それが甘い、もしくは“イカサマ”だと言うヒトがいればその主張自体は受け入れます。)

さて、各キャラの背中に張り付いている“作者の見えない糸”の臭みを消し切れずに、
“キャラクターの独自性”を疑われている拙作ですが、後章はともかく前章(と言っても
シンジとアスカの二人だけですが)に関しては、特にプロットを決めずに、与えられた
環境の中でキャラを自由に動かしていたつもりです。
具体的に言うなら、冬月達に与えられた“温室”の中に、シンジとアスカという名前の
二人の壊れた子供を放り込んで、後はその温室内での二人の様子をリアルタイムに観察
していたら、案の定というか、二人の子供達は“壊しあい”をはじめました。
だから前章でのシンジとアスカの目的はそれぞれ異なっています。

シンジですが、まず、有り得ないことですが、もしEOE後のアスカがシンジを受け入れ
てしまったらシンジは100%駄目になってしまうと自分は思ってます。
確かに人間は他人に保証されるお互いの関係性の中で自己を補証し合うのでしょうが、
EOE後のシンジの場合はその程度を遥かに越えていたように感じる。
アスカに依存することによってのみ何とか生きられるシンジ。とすれば、アスカを
失ったら、待っているのは“精神崩壊”か“死”か…。
その異常な依存症状を根底から叩き直すには、これはもう、シンジが“逃げ場”だと
勝手に思い込んでいて、シンジが“唯一恐くない他人”であるはずのアスカをそれこそ
シンジがアスカから逃げ出したい…と思いこませるほど“恐いモノ”だと認識させる
しかない。(たとえ“暴力”という幼稚な手段を使ってでも。)
こうしてシンジがアスカに心底恐怖(ようするに人形でも逃げ場でもなく、自分
なりの考えを持った他人であり、明らかに自分とは異質(異性)なモノであるというコト)
を感じるようになって、はじめて自分としては次の段階に進めるようになるわけです。

次にアスカに関しては、シンジよりもさらに酷い状態だと自分では勝手に思っていたので、
(EOEでは、シンジは一応まかりなりにも自分の意思で現実に戻ってきたわけですが、
アスカの場合は壊すだけ壊しておいて、その後完全に放っておかれたように感じますので)
まずは“狂気”から醒まさせることそのものが目的でした。
本来なら、他の看病補完FFでよく見かけるようにシンジがアスカの憎悪を正面から受け
切って、その上でアスカを正気に返して欲しかったのですが、ご承知の通り、僕はEOE
後のシンちゃんのプロパティを相当低く見積もっているので、その当時のシンジにアスカ
の憎悪を背負えるだけの強さがあるとは到底思えませんでした。
そんなわけで、今のシンジにアスカを正気に返せる手段があるとしたら、これはもう壊
れてもらうしかないかな(『嫉妬に狂った女が包丁で男を刺し殺し、滴り落ちる血の音
と冷たくなった愛する男性の死体を前にして、一気に燻っていたもの冷えて、はじめて
自分がしでかしたコトの重大さに気がついた』というパターンですかね。(苦笑))
などと、えらく物騒なコトを考えながら、温室内での“壊しあい”を観察していたら、
案の定、シンちゃんは途中で耐え切れずに壊れてしまいました。

かくして前章での両者の目的
シンジ…アスカを逃げ場でなく、自分とは異質な存在(異性)であることを認識させる
アスカ…EOEから引き続いている“狂気”状態から何とか開放させる
を何とか達成したところで、前半の折り返し地点を終了。
シンジに関しては壊れたままでは困るので、エヴァTV版エンディングを採用した
自己啓発セミナー(爆)で、何とかシンちゃんを騙して、(自分的にはこの表現が一番
合っていると思う。現実へ戻ったシンジの前にはアスカはいなかったし、あの夢の中で
悟った『正論』は総て後章の展開で裏切られるように作ってあったので)現実世界へ
もう一度引きずり戻し、二人の関係性の修復は後章の展開に委ねることになりました。

こうしてみて見てみると、第三回目の論述で描いたように「二人の補完」という作品は
「ある神話」とはまったく正反対の性質を持つ作品だということが分かります。

僕個人がEOE補完小説で重視する二つのポイント
@(EOE後のシンジとアスカの心理描写を忠実に再現しているか?)
A(EOE後の状況として描かれた世界観に偽りはないか?)
が「ある神話」と「二人の補完」では、それぞれ長所・短所と考えているポイントが
まったく正反対なわけです。
(本当にくどいですけど、あくまで僕個人の身勝手な嗜好に照らし合わせたらの話しです)

「ある神話」に関しては、
A(EOE後の状況として描かれた世界観に偽りはないか?)
の条件を過不足なく十分に満たしていましたが、(それこそ99.89%の割合で)
@(EOE後のシンジとアスカの心理描写を忠実に再現しているか?)
の条件に関しては、僕のようにすぐに物語の前提条件にケチをつけたがる偏屈な読者
からしてみれば、失礼ながら『イカサマ』だとした思えなかった。

そんなわけで、では
@(EOE後のシンジとアスカの心理描写を忠実に再現しているか?)
の条件を忠実に満たした作品を自分の手で描いてみようと…思って描き始めた
「二人の補完」に対しては、@に関してはまあ何とか自分が納得出来る範囲で
物語を作ることが出来たと信じていますが、その為に逆に
A(EOE後の状況として描かれた世界観に偽りはないか?)
の条件が、上の論述で書いた通り、“イカサマ”かどうかは別にしても、相当に
“甘口“であることは作者自身にさえ否定できないわけです。
(尚、@のポイントが「二人の補完」の長所だというのは、あくまで僕個人がそう
信じているだけの話しです。正直、中学生レベルの乏しい知識と文章(表現)力
だけで成り立っている拙作に、何か“売り”が存在するとしたら、多分、EOE後の
シンジとアスカの心理描写を忠実に再現しようと、試みたところだけだろうな…と
自分では思っているので、だから例えば齊藤さんのように、逆に僕が自作のたった
一つの長所だと思っている心理描写にさえ全然納得できない読者にとっては、
自作の評価が著しく低くなるのは当たり前なわけですね。)

こうして自分なりにEOE続編について考察してみて感じたのですが、EOEという
電波映画を出典とすると、僕がEOE続編で重視する@(心理描写)・A(世界観)の
二つの条件を、一つの作品の中で共存させるのはかなり難しいような気がします。

僕個人の勝手な基準で考える、アフターEOEのシンジとアスカのプロパティである、
『生ゴミシンちゃん』と『いかれアスカ』を考えると、「ある神話」に限らずに、
EOE続編の中でも厳しい世界観を持つお話し(二人を一切庇護せずに、いきなり地獄の
ような環境に放り込まれたシンジとアスカが、その地獄のような世界の中で自己の
プロパティだけで最後まで戦い続けた…という類のプロット)を読むと、『この二人は
本当に僕が知っているシンジとアスカなのだろうか?』という疑問が拭えませんでした。
(あくまで僕が、EOEを出典とした「ある神話」のような類のお話しを読むとそう感じて
しまうだけです。だから、もし、EOE後の二人をいきなり地獄のような環境に放り
こんで、僕個人に一切『イカサマ』を感じさせずに、二人が立ち直る過程を描いた作品
があるなら是非読んで見たいと思っています。(残念ながら今のところ、一度もそういう
作品にお目にかかったことはないですが…。))

逆に「二人の補完」のように、二人を大人達に庇護させ、温室のような特別な環境の中で、
二人が立ち直る過程を描いた作品は、僕にとっては『まぁ、これなら不自然じゃないな』
と感じることが出来ましたが、前提となる条件(大人達の庇護)自体が甘すぎるし、
(利己的な視点から見れば、ネルフの大人達が、シンジやアスカを自分達の保身を図る
為の人身御供として生け贄にすることはあっても、何の利用価値もない壊れた子供である
シンジやアスカを立ち直らせる為だけに、命がけで政府と戦うコト自体不自然だ…と考え
るヒトも中にはいるかもしれないし…というより絶対いるよな。大人達が良いヒトすぎ
て問題になっている作品は自作も含めて結構良く見掛けるし。(汗))
何よりも、自分も本来なら、シンジ至上主義者として、シンジ自身の己のプロパティ
だけで、辛い現実の世界を生き抜いて、立ち上って欲しいと切に願っていたのですが、
EOEを見て、『それ』が自分の心を偽らずに描くのは不可能だと思ったが故に、総合
クラスの論客から見たら、相当甘口な方向に走らざるえなかったわけです。

世界観を辛くすれば、心理描写が不自然になり、逆に心理描写を自然なものにするため
には、今度は世界観の方が甘くならざる得ない。(う〜ん)
(今のところEOE続編で、両者をバランス良く満たした作品にお目にかかったことが
ないので、そう思っているだけで、もし@・Aを高いレベルで満たした作品を一度でも
読めたなら、上記の考えはあっさり放棄させていただきます。)
 

これは、もしかすると『親殺しのタイムパラドックス』に近いかもしれません。(汗)
(『親殺しのタイムパラドックス』とは、もしシンジがタイムマシンで過去を20年ほど
遡って、自分の産みの親であるゲンドウを殺した場合、当然歴史が変わり、ゲンドウは
途中で死んでしまうので、今度はシンジは産まれないことになってしまう。
となると、当然シンジは歴史上存在しないことになってしまうので、タイムマシンに
乗ってゲンドウを殺しにいくことができなくなり、ゲンドウは死なないことになるので、
シンジは生まれてくることになり、タイムマシンに乗ってゲンドウを殺しにいけてしまう。
そしたら今度はまた……という風に、こういう時間軸を用いた無限連鎖というか、
理論上解消不可能な矛盾を『親殺しのタイムパラドックス』といいます。)

もし、EOE版『親殺しのタイムパラドックス』(世界観を辛くすると心理描写が不自然
で、心理描写を自然にすると世界観が甘くなる)の矛盾を廃して、世界観にも心理描写
にも、自分(のようなすぐに物語の前提条件にケチをつけたがる偏屈な読者)に一切
“嘘”を感じさせないような、僕個人が考える『最高のEOE補完小説』を描ける可能性
があるヒトがいるとしたら、キャラ(シンジやアスカでなく綾波だけど)に対する深い
思い入れと、世界に対する鋭い感性を持っている砂漠谷さんぐらいかな…などと個人的
には思っていたりします。(かなり本気で…。)
とはいえ、砂漠谷さんはEOEにもLASにも興味がないようなので望み薄ですが。(汗)
尚、上記のテーマを砂漠谷さんが書いてくれるなら、別にLASじゃなくて、LRS
でも個人的にはOKだし(僕はシンジ至上主義者だから)、さらに途中でシンジが力尽
きて死亡してしまうようなバッドエンドでも全然かまわないです。
どうのこうのいっても、作品の結末(ハッピーエンドにするもバッドエンドで終わら
せるのも)というのは、所詮は作者の趣味でしかないと個人的には思っている次第なので、
そこに描かれたヒトと世界に“嘘”を感じられなければばそれで十分かな…と。
(「ある神話」だって、シンジが出所後に二人を自然に再会させて、まったく不自然なく
ハッピーエンドにすることも出来ないことではないし、「二人の補完」など途中でバッド
エンドで終わらせた方がよっぽど簡単で、僕自身が人一倍ハッピーエンドに拘ったから
こそ、苦労してああいう結末を作ったわけだから…。とはいえ、それでも作者個人に
とっては、自分の作品の結末はすべからず『必然』から成り立っているのではあろうけど)

ここは以前砂漠谷さんが総合で主張していた何時か描いてみたいと言っていたLRS作品
・シンジに本当の業というものを思い知らせてやりたい。
・それで潰れるような主人公なら精一杯のた打ち回って死ぬのもすごくいいと思っている。
・汚れ切った時にそれでも捨てられない“何か”があれば、それが『答え』なのではないか?
のテーゼが、もしEOEのアフターストーリーだとしたら(多分違うと思うが)
個人的には密かに期待してみたいところであります。
(とはいえ、他人の書いた作品を“当て”にすると偉い目に逢うのは、第二回の論述で
体験した通りなので、やっぱり、自分なりのテーマを掲げた作品を不完全ながらも自分の
手で描き切って完結させる方が、確実なような気もします。(汗))

…なんか、最後の方はアンチテーゼというテーマから離れて『僕の理想のEOE補完小説』
というような趣旨に脱線してしまいましたが(汗)、上記の理由から自分は「ある神話」
や「二人の補完」にもEOE続編として欠けているモノが少なからずあると思っているので、
決して100%完全な満足を得ているわけじゃない…ということですね。
 
 

(2)後章「まごころを君に」編

で、後章なんですが、後章は前章と違ってかなり趣味に走ってます。(汗)

極端なコトを言えば、後章の展開は総て、第二十五話「I need You」
を作り上げるために存在していたと…いっても過言ではなく、その為に、相当に作為的
な設定(ご都合なオリキャラやイベントの数々)などが跋扈しています。(汗)
(勿論、後章の大筋としては、往生際悪く後書きで説明していたような理由でプロット
を組んでいたのですが、…と同時に、見えざる行間の間に作者の隠れた意図(裏シナリオ)
が同時進行していた…という次第でしょうか。)
なぜなら、僕にとって前章が、“EOEで出来たシンジとアスカの間にある溝を解消する”
という目的で作られたモノなら、後章では、「ある神話」の“お互いに愛していながらも
一生巡り合うことが出来ない二人“という、僕の心を縛り付けている楔を振りほどくと
いう隠れた目的(裏シナリオ)があったからなのです。

「ある神話」のシンジとアスカがお互いに愛し合っていながらも一生巡り合えなかった
理由をもう一度簡単にお浚いすると

シンジ…キーワード『相手への恐怖心』
自分に対するアスカの気持ちが全くわからなかったので、拒絶されることが怖くて、
最後の最期までひたすらアスカを待ち続けることしか出来なかった。
『アスカ』…キーワード『相手への負い目』
シンジの自分に対する気持ちを知りながらも、一度シンジを不幸にしたという負い目が
あったので、どうしても自分からシンジに近づくことができなかった。

シンジ・アスカ各々の事情をかなり単純化すると上記のようになります。
(あくまで作中の二人の心理描写から推測した僕の勝手な主観に過ぎませんが)

そして、前章の執筆を終了し、後章のプロットについて考えている時に、
『もし「ある神話」のシンジとアスカの二人が巡り合えなかったのと似たような状況を
再現して、その上で自作のシンジとアスカに正面切って、その運命を乗り越えさせれば、
「ある神話」の“お互いに愛し合っていながらも一生巡り合えなかったシンジとアスカ”
という、僕の心を縛り付けている楔も振り解けるのではないか…。』
などという、他人から見たらえらく下らないことを考えてしまいました。(汗)

というわけで「二人の補完」の後章からは、上記と似たような状況(二人の心理状
態を「ある神話」に二人の心理状態に近づける)を作り上げるために、表のシナリオを
進行させながらも、作者の個人的な拘りによる裏のシナリオを同時進行させるために、
傍から見るとかなり作為的な設定が跋扈してしまったわけです。
(マヤの羅刹化、アスカのラブホテル疑惑、夢の中で出てきたもう一人のアスカ等など)

ただ、当然ながら「ある神話」と「二人の補完」では、そこへ至るまでの過程はまったく
異なっていたので、(僕は政治的暴力を可能な限り省いてお話しを作っていたので。)
そのまま同じモノを再現しても芸がないかな…と思ったので、さらに二人の関係性に、
「ある神話」とは異なったプラスアルファの要素をいくつか付加することにしました。

シンジの場合のプラスアルファの要素…『相手への恐怖心を倍増する』
アスカの自分に対する気持ちを分からなくした上で、さらに
「アスカは世界で一番、自分のことを憎んでいる」というプラスアルファを付加。
少なくとも「ある神話」のシンジはアスカに相手にされていないとは思っていても、
憎まれているとはまったく思っていなかったはず。
これによりシンジがアスカに感じる恐怖心はさらに増幅されることになる。

アスカの場合のプラスアルファの要素…『相手への負い目度を倍増する』
単なる偶然ではなく、アスカ自身の明確な『悪意』によってシンジを不幸にさせる。
「小春日和」で語られた、アスカがシンジに対する負い目を抱く原因となった、
『カールスエーエでの研究』がどんなものであれ、少なくとも「ある神話」のアスカ
には“シンジを不幸”にしたい…という『悪意』だけは存在しなかったはず。
この『悪意』の有無の一点だけでも、アスカがシンジに感じる負い目度は、著しく
増幅されることになる。

このように「ある神話」以上にシンジとアスカが一緒になれないであろう運命
(と僕が勝手に信じこんでいるだけです。少なくとも僕が推測した「ある神話」
のシンジとアスカが一緒になれなかった理由と、作者であるしのぱさんが意図したで
あろう理由が『食い違っている』ということだけは、あらかじめ明記しておきます。)
を一年近い期間をかけて、物語の中で一つ一つ丁重に積み上げていって、
さらに「ある神話」の主題だった『罪と罰』というテーゼに真正面から対抗する為に、
『罰よりも償い』というテーゼを実体験の中で不自然なくシンジに実践させた、
外伝1「ある少年の自己肯定に至る軌跡」シリーズを本編を三ヶ月近く中断して作り上げ、
(外伝を描いた目的って、本当に「ある神話」の結末にケチをつける為だけだったん
だよな(汗))
正直、人生のエネルギーの使いどころを間違えてやしないか…という心の内からの声が
聞こえてこないでもないでしたが(汗)、後はその運命を二人の明確な意思の力と、
“正論”によって正面から乗り越えさせたのが、「二人の補完」本編のクライマックス
である、「I need You」だったわけです。
(正直、「I need You」を描いた地点で半端目的を達して力尽きてしまったので、
最終話「希望」はせつこさんが指摘したように“絵に描いたような希望”に落ちついて
しまいました。(苦笑))

この時、シンジとアスカに、上記の運命を『一瞬』で乗り越えさせたのは“わざと”です。
当然「ある神話」と比較してのことですが、別の誰かにとっては一生掛かっても乗り
越えられない壁も、別の誰かにとっては一瞬で乗り越えられる場合もあるのでは
ないかな…というケースとして描いてみたかったので。(意味不明)
(たぶん、「ある神話」のシンジとアスカは仮に寿命が千年あったとしても、不老不死
だったとしても、生きている限りは、一生巡り合えなかったでしょうから。(汗))

当然ですが、それを以って「ある神話」のシンジとアスカが「二人の補完」の二人より
劣っていると主張するつもりは全くありません。
(何より、「ある神話」のシンジとアスカは、温室で育てられた「二人の補完」のシンジ
とアスカと違い、地獄のような本物の修羅場の中でお互い自身を高め合ってきたわけだし)
ようは「ある問題」に対する被験者の属性(というか相性)の問題にすぎない…と個人的
には思っているだけですので。
喩えるなら運動音痴のヒトにとってはどれほど努力しても、100mを14秒台で走るの
さえも不可能だとしても、別のスポーツが得意な誰かにとっては、特に何の努力もしなく
ても12秒台で走れてしまう場合がある…とか。う〜ん。なんか、変な比喩だな。(汗)

まぁ、何にしても、二人の補完の「I need You」を読んだ読者の中に、
『なんだよ、ちょっと勇気を出して踏み込んでみればこんなにあっさりとうまくいくん
じゃねえか。なのに、怖がって、何時までも擦れ違いばかり繰り返しやがって…。』
と感じてくれるヒトが一人でもいてくれたら作者としては大成功なわけです。
他のヒトにとってはどうだったか分かりませんが、少なくとも僕にとっては「ある神話」
の二人が巡り合えなかった理由なんて、シンジがちょっと勇気を出して、アスカに会い
にいけさえすれば、それで乗り越えられる程度の小さな壁だとしか思えませんでしたので。
 
 

(3)総論

相変わらず纏まってないのは何時ものことですが、そろそろ総論に入るなら、
「二人の補完」という作品は、EOEに対する続編(+アンチテーゼ)である以上に、
実は「ある神話」の“一生巡り合えない二人”という僕個人が抱えているトラウマを
解消することを目的としてオーダメードで作られたお話しだったわけです。
ようするに前章の目的が、『ある神話』の“心理描写”と“世界観”という二つの設定に
対して、EOEを見て僕自身が感じた違和感に対するアンチテーゼだとしたら、
後章の目的は、『ある神話』という物語の“絶対真理”だった「EOE後のシンジと
アスカは、お互いに愛していようと死ぬまで絶対に一緒になってはいけない」という
思想(?)そのものに対するアンチテーゼというわけですね。

正直、ここまで作者の趣味に走った偏った作品(完全に作者の個人的な事情なので、
可能な限り裏シナリオの設定は表のシナリオに現れないように気を遣ってましたが、
しのぱさんをはじめとして僕の「ある神話」に対する“拘り”を知っていたヒトは
きっと苦笑しながら読んでいたことと思います)に、最後まで共感して読んで
いただけた読者がいてくれたというのは、(「ある神話」に対するアンチテーゼなんて、
自作を読んでいたほとんどの読者にとってはどうでもいいことだったと思いますので)
自分(作者)にとって本当に幸せなことだったと思います。
(と同時に、作品内で何よりも僕個人の拘りを盲目的に総てに優先させてしまったために、
途中で道を違えざるえなかった読者も少なからずいたことを大変残念に思いながらも…。)
 

つづく。
 
 


【名  前】けびん
【タイトル】最終回「今後の予定」
  10/06 18:56
Mail: itirokai@gol.com
URL:
【メッセージ】
長い間(?)続いた、意味不明な論述も今回で最後になります。
最後は、自分なりに考えた、自分の中にあるエヴァと決着を着ける方法について、
自分の今後の行動の指標について述べる…という形で纏めたいと思います。
(しかし書けば書くほど、自分には“論客”としての適性が根本的に欠けているコトを
痛感せざる得ないな。(汗)一回の論述の中にさえ、自分で意識できるレベルの矛盾が
いくつか存在するようでは、これ読んで納得出来る他人がいるなんて到底思えないし。)

(1)『シンジ×アスカ幸福臨終主義』と『FF執筆式転移療法』

僕自身がエヴァから解脱する為に、絶対に避けては通れない問題として、今まで、
長々と書いてきた「ある神話」という壁が存在するのですが(苦笑)、僕がなぜ
「ある神話」にここまで病的に拘るのか、どうして他人が書いたたった一つの作品の
結末に心が縛られるのか、今まで色々と自己分析してきたつもりですが、その理由を
もう一度、単純化して説明するなら、僕にとって「ある神話」で描かれた世界が、
星の数ほどあるEOE後のシンジとアスカの可能性の一つ“One Of Them”ではなく、
EOE後のシンジとアスカのたった一つの真実の姿“One Of One”だからだと思います。

普通のヒトが「ある神話」を読んでも、“悲しいお話しだったな。(うるうる)”
で終わってしまうのは、多分、それはこのネット世界にある何百・何千とある
エヴァ小説の中の一つ、つまり「ある神話」の結末は、EOE後のシンジとアスカの
星の数ほど存在する可能性の中の一つに過ぎない(つまりは“One Of Them”)
からなのでしょう。
(かなり無茶な仮定ですが、もし、「ある神話」がEOE後のシンジとアスカの
“たった一つの結末”だということになったら、僕の他にも少しはあのエンディング
に抵抗するヒトがいるんじゃないかな…と意味不明なことを考えていたりします。(汗))

で、僕にとってはすでに説明してきたように、「ある神話」の結末は、“One Of Them”
なのではなく、“One Of One”(EOE後のシンジとアスカのたった一つの真実の姿)
になってしまっているので、本当に何の自慢にもなりませんが、ここまで他人から見れば
無意味で不必要な苦労を重ねに重ねているわけなのです。(汗)
(これは当然しのぱさんが強制しているわけではなく、純粋に僕個人の問題なわけですが)

そういえば以前、砂漠谷さんが“肯定であれ反発であれ、読者に無視し得ぬインパクトを
与えられる作品を書いてみたい“という趣旨のコトを主張していたことがありましたが、
「ある神話」は、読者(と言っても僕一人ですが)に到底無視し得ないだけの強い影響力
(勿論、肯定ではなくかなり強力な反発の方ですが)を与えているわけですから、
(僕が自分で言うのも何ですが、「ある神話」には、一年掛かりでアンチテーゼ作品を
一つ作り上げよう…と読者(自分)に思わせる程の異常な影響力があったわけなので)
「ある神話」はそれだけの強いインパクトを他人に与える事が出来る、本当に素晴らしい
名作だということになるんでしょうね。(逆説的に言って。)

まぁ、僕にとって一つだけ有り難かったのは、「ある神話」の物語から受けたインパクト
があまりに強力すぎたので(それこそEOEの結末の『気持ち悪い』さえも霞んでしまい、
他のFFがどうでもよくなってしまうぐらいに(苦笑))、自分の中にある「ある神話」
に対する拘りを消すことさえ出来れば、それは、自分の中のエヴァの決着と同義に等しい
ので、そのまますんなり『エヴァそのもの』から解脱できそうなことですかね。
(勿論、この先、「ある神話」や「二人の補完」と比べ物にならないぐらい@・Aの
条件を高いレベルで同時に満たしたEOE補完小説(あくまで論述ではなくて小説である。
自分は「ある神話」のように不完全ながらも強力なインパクトを持つ物語に心を揺さ
ぶられ影響されたことはあっても、物語(浪漫)を持たない、完璧な論述の方に心を
動かされたコトはなかったので)と出会ったりしたら、当然、その限りではないが。
(というよりも、その時は節操なく、「二人の補完」や「ある神話」に対する拘りを
総て放り出して、そっちの方に乗り換えてしまうと思う。))

さて、自分は「二人の補完」の続編構想を抱えていたりしますが、まかりなりにも本編
を一応完結させておきながら、往生際悪く「続編」を書こうなどと考えているのは、
(その割には一年近く何もしていないが…というよりだから論述を書いているのだが)
言うまでもなく「ある神話」から受けたインパクトを自分の中から消し去る為です。
前の論文で書いた通り、死後の世界を信じていないタイプの自分にとっては、
「ある神話」のエンディングは些か納得がいかないモノでした。
とはいえ、僕の心の中ではEOEと「ある神話」は完全にリンクしてしまっている為、
「ある神話」の二人の生様はEOE後のシンジとアスカのたった一つの真実の姿になって
しまっている。しかも、「ある神話」はその特異な物語の性質上、読者に誤解しようの
ない形で、シンジとアスカの人生を臨終までトレースさせることになりました。

こうなってしまったら、僕が取るべき手段は一つしかありません。
それは「ある神話」と同じように「二人の補完」のシンジとアスカの人生を臨終まで
トレースさせ、僕の心にあるエヴァの真実の姿の中から、EOE以降の「ある神話」の
物語の部分に、上から「二人の補完」の物語を被せて強引に塗り変えるだけです。
(う〜ん。何か自分がモノホンのガイキチに思えてきた。(汗))
だから、「ある神話」の物語はシンジとアスカの臨終の姿まで描かれているので、
僕の心の中にあるEOE後の真実を、最後まで塗り替え続ける為には、自分も
「二人の補完」の物語をシンジとアスカの臨終まで描き続けなればならないわけです。

というわけで、今こそ此処に宣言しましょう。
僕は「シンジ×アスカ幸福臨終主義者」です。(爆)
えっと「シンジ×アスカ幸福臨終主義」についてどういうものか簡単に説明すると、
「二人の補完」の本編後をベースに物語から二人の人生そのものの厚みを感じられる
ぐらいの密度を保った上で、数年刻みでシンジとアスカの人生を少しずつトレースし
続けて、(外伝みたいな一話完結方式で全十話前後を予定中)ラストは一気に臨終前
まで場面を切り替えて(往年期は「ある神話」も描いていないのでパス)、そこで
二人を幸福に臨終させるという狂気のプロジェクトのことです。(笑)
多分、見た目だけなら「二人の補完」の続編のラストは「ある神話」のエンディング
と全く変わらないように映ると思いますが、最後にシンジを看取るのが“幻想”でない
“本物のアスカ”だというのが僕にとって大きな意味を持つことになります。
(う〜ん。それにしても続編を書く前に、ラストの落ちも含めたこんなレベルの
ネタバレをしちゃっていいのだろうか。(汗))

そういえば、以前けんけんZさんが『シンジ×レイ生き別れ主義』というマイノリティ
宣言をしていましたが、多分自分はもっと超マイノリティになるでしょうね。(苦笑)
LAS自体は絶対数が多いですが、あくまで皆、永遠の十四歳の子供であるシンジとアスカ
(もしくは新婚さんシンジ×アスカ)のラブラブが見たいのであって、不幸な途中死で
あろうと、幸福な臨終であろうと、シンジとアスカが死ぬ姿なんて絶対に見たくない
でしょうから。
(とりあえず会員を募集したいところだけど何人集まるだろうか。確か今のところ自分
のこのいかれた趣旨に賛同してくれたのはThrkさんぐらいだけど…。)
 

僕自身は自分がこれからやろうとしていることは(続編を書いて『幸福臨終主義』を
達成するのは)臨床心理学でいう『転移療法』の一種だと思っています。
(まず例がないであろう、かなり変則的な形態ではありますが(汗))

『転移療法』について簡単に説明すると、
精神病患者に対して、カウンセラーがよく用いる精神治療法の一つで、
例えば、小さい頃、親から児童虐待を受けたりして、それが強いトラウマとなって心に
巣食っていて、成人した今でも鬱病状態を抱えているような患者によく用いられる
療法で、その患者にとって嫌な体験の期間(この場合は、親から虐待を受けていた
子供の頃)の記憶を、カウンセラーから与えられる疑似体験とすり替えることによって、
子供の頃の虐待の体験をなかったことにさせることによって、鬱病の原因であるトラウマ
を取り除こうと試みる疑似療法のことです。
(う〜ん。やっぱりこれだけの説明じゃどう考えても不十分だよな。(汗)
何か間違った知識を伝えている可能性も十分あるし。(おいっ)
ここはMEGURUさんのようなプロのカウンセラーのヒトに説明して欲しいところだが)

つまり、以前、自分が小説を書くのは、エヴァというトラウマに縛られた自分自身の
病んだ心を自己カウンセリングするために「二人の補完」を書いている…というのは
そういう意味だったわけです。
僕にとって「ある神話」が自分の中の不都合な真実(おいっ)になっているのなら、
転移療法によって、「二人の補完」に塗り替えてしまえばいい。(狂人の発想)
自分の自己カウンセリング方法は、「小説を書く」というかなり特殊な形態ではあり
ますが、目的と効果を考えれば、これもまた『転移療法』の一種ではないかと思います。

その為に重要なのは、僕自身が「ある神話」から受けた、巨大なインパクト(浪漫)を
完璧に上から塗り潰せるだけの、「ある神話」よりもさらに強いインパクト(浪漫)を
持った作品でなければ、転移は成功しないということです。
前述した通り、エヴァネット界にあるEOE補完小説を可能な限り発掘し続けましたが、
残念ながら「ある神話」から受けたインパクトを打ち消せるほどの“浪漫”(物語)を
持った作品には最後まで出会えなかったので、自分で「ある神話」のインパクトを
打ち消すコトを目的とした作品をオーダメードで作ったのが、「二人の補完」なわけ
です。
尚、僕個人は「二人の補完」が「ある神話」を越えた作品だとは全然思っていません。
というか、他人の評価は別にして、自分には「二人の補完」は未来永劫「ある神話」
には及ばないと思っています。
以前、齋藤さんが、エヴァの二次創作は、結局は、庵野監督の精神世界(掌の上)で
遊んでいるにすぎない…と主張していましたが、だとすると、自分の世界はさらに狭い。
その二次創作の一つである「ある神話」の世界の中(しのぱさんの掌の上)だけで遊ん
でいるようなものですから。(苦笑)
何しろ、僕が作品の設定やリアリティについて考える時に、必ず自分が用いる基準の
一つに「『ある神話』と比べてどうだろうか?」という対比方法があります。
例えば、自分がシンジを政治的暴力から遠さげた設定にまったく不都合を感じていない
のは、『「ある神話」のアスカ』に近い立場で、自作のシンジを描いているからです。
「ある神話」のアスカは、刑務所に放り込まれたシンジと違って、多少の行動の自由を
監視されていた以外は、比較的自由な行動が許され、EOEの業をなど無視して自由な人生
を送る事も可能な立場にいながら、敢えて自分の意志で、EOEの罪と生涯関わり続ける
道を選びました。
だから、自作のシンジも『「ある神話」のアスカ』の立場と同じく、EOEの罪なんか無視
して自由な人生を送るのも可能な立場に置いて上で、敢えて、シンジ自身の明確な意志で
EOEの罪と生涯関わり続ける道(カウンセラー)を選ばしたわけです。

少し脱線してしまいましたが、話しを戻すと上記の理由から「二人の補完」は
「ある神話」には到底及ばない。
ただ、「二人の補完」は「ある神話」のインパクトを打ち消すし易いように、
物語の設定の一部をカスタマイズし“アンチ「ある神話」”用にオーダーメードで
作られた作品なので、僕個人にとっての自己カウンセリング(転移療法)としては
高い効果が期待出来る…といったところでしょうか。
具体的なカスタマイズ個所を言うなら、
1.「ある神話」は、自分がEOE続編で重視するA(世界観)のポイントを最高
レベルで満たした作品なので、同じA(世界観)のポイントを重視したタイプの作品
で転移を完成させるのは非常に困難である。(というより事実上不可能)
だから、A(世界観)の出来は多少無視してでも、@(心理描写)の別ポイントを
高いレベルで満たした作品で転移を試みた方が有効である。
2.「ある神話」をベースに転移を完成させるのはどうしても「ある神話」のテーマ
であった『お互いに愛し合っていながら一生巡り合えないシンジとアスカ』という、
「ある神話」のシンジとアスカが乗り越えられなかった運命を、正面切って克服した
物語である必要がある。(詳細は前回第五回目の論述の(2)後章の方を参照)
3.上記と同じく、転移を完成させるのもう一つの条件として、「ある神話」と
同等のタームまで物語りを作る必要がある。「ある神話」はシンジとアスカの臨終
まで描いたのだから、同じく臨終まで描いた作品でないとならない。
(これが所謂『幸福臨終主義』である。)
4.シンジ至上主義者として、「ある神話」のシンジ以上に転移作品のシンジは、
魅力的なキャラとして描かれていなければどう考えても転移は完成しない。
正直、「二人の補完」本編のシンジのキャラ像には自分も色々と、う〜む(?)な所
があったので(大汗)、続編で、「ある神話」の聖人シンジに対抗する為に、
『スーパーカウンセラー碇シンジ』(詳細は後述する(2)を参照)を描いてみる予定。

…ということになりますかね。(苦笑)
 

まぁ、こんなキチガイじみたコトを考えてしまう自分はやっぱり、世間一般で
いう『馬鹿』もしくは『病人』なんでしょうね。(暇人かも知れない。(爆))
とはいえ馬鹿だって、馬鹿なりに、どうすればいいのか色々と悩み考えますし、
心の病んだ人間だって、そこから一歩でも自分の力で前へ進もうと、そこで立ち止
まらずに、不器用ながらも必死に足掻いているわけです。
自分のしていることは、傍から見れば『愚かな奴だ』と嘲笑するヒトもいるかも
しれませんが、自分は自分のしていることに自信と誇りを持って最後まで物事に
取り組みたいと思っています。(例えそれが完全な自己満足だとしてもです。)

また少しだけ脱線。
最近、こうして論述を書いているうちに、ほんの少しだけですが、あれだけ嫌悪して
いた「ある神話」のシンジとアスカの狂気の病んだ生き方も、本当に何となくですが、
分からないでもないような気がしてきました。(あくまで気がするだけですが(汗))
正直、僕の「ある神話」から受けたトラウマは、純粋に僕個人の心の問題であって、他人
から何ら物理的な拘束を受けているわけじゃありません。
(最も、物理的な拘束を受けない精神的な悩みを、総て己個人の性根だけで解消出来ると
したら、カウンセラーの存在意義は有りはしないけど)
ただ、僕は、こんな他人から見たら「馬鹿」としか思えないキチガイじみた方法
(正直、もし他人が自分と似たようなことをしたら、僕自身でさえも「こいつ馬鹿
じゃないか」と思いますし)でなければ、前へ進むことが出来ないわけです。
(それこそが、自分が『病んで』いる所以なんですけどね。普通は『飽きる』こと
によってエヴァから離れるのが自然(健全)な摂理なわけでしょうし)

だとすると「ある神話」のシンジとアスカにしてもそうなのかもしれない…。
出所後、何ら物理的拘束を受けていないシンジとアスカが、自分達の意志でお互いを
縛り合い、一生巡り合えなかったのが、本当に悔しくてしょうがなかったけど、
そういう『病んだ』他人から見たら『馬鹿』だとしか思えないような不器用な生き方
でしか、「ある神話」のシンジとアスカは、自分の人生を前へ進ませる事が出来な
かったのかもしれない。(理性はともかく未だ感情が納得出来ることではないが)
今まで長々と意味不明な論述を書いてきて、一番実りになったのは、最後の最後になって
今まで、色々と不都合なので、分かろうとさえしなかった「ある神話」のシンジとアスカ
の気持ちを、本当にほんの少しだけ『分かろうとした』ことなのかもしれないです。
 
 

(2)シンジ至上主義者の趣味としてのスーパーカウンセラー碇シンジ

続編を書くのは(1)で説明した通り、『シンジ×アスカ幸福臨終主義』を実現させて
EOEと「ある神話」に対する転移療法を完成させるという必然的な意味のほかにも、
もう一つ、僕個人の『趣味』ともいうべき理由があります。
それは、シンジ至上主義者としての拘りというべきでしょうか、「二人の補完」本編で
今一つ受けが悪かった碇シンジのアイデンティティの確立を目指していることです。

何て言うんでしょうかね。別に「ある神話」に限ったことではなく、シリアスな
シンジとアスカの夫婦モノで僕自身が何となくしっくり来るモノだと、
シンジは『誠実な無能者』として描かれている作品が多いです。(苦笑)
ようするに社会的に成功した才女(キャリアウーマン)だけど、やや自己肯定力に欠ける
アスカを誠実に愛することだけが存在意義のような極めて等身大なシンジ君のことですね。
(例えば「扉を開けて」とか。あれっ?やっぱり、しのぱさんに行き着いてしまう(汗))
まぁ、それはそれで別に一向に構わないのですが、シンジ至上主義者である自分としては、
シンジにもアスカに負けないようなアイデンティティを持って欲しい。
(特に『世界政府総裁』という“世界一の権力者”という『「ある神話」のアスカ』が
持っていた特別なアイデンティティをさらに上回れるような超特別な何かが…。)
けど、ただ単純に、彼方此方のFFで良く見掛けるような、総ての能力値がエリート君
のスーパーシンジだけを描いても、それだけではやや面白味に欠ける。
(というより、一度本編の十一話で描こうとして失敗しましたし(汗))
何か、シンジになら出来る、いやシンジにしか出来ないような、特別なアイデンティティ
の確立方法はないだろうか。(by加持さん)
その時、ヒントになったのは「ある神話」の「やがて曲が終わる時」でイェルクがアスカ
に語っていた『彼(シンジ)に出来るのは、ドン底の人間にとって必要なことだけだ。』
というセリフでした。
作中内でイェルクは、アスカの生活の支えにさえなれない、シンジの社会不適応性を
皮肉って(というより真摯に憂いていたのかな?)いましたが、
『“ドン底の人間にとって必要なこと”が出来る』…というのは、誰にでも出来ること
じゃなくとんでもなく“すごい事”でないかい…と僕個人などは思いました。(マジに)
それだけに尚更惜しいな…と感じました。
「ある神話」のシンジが刑務所の中で身体を張って磨いた、死刑囚さえ手なずけてしまう
(何か嫌な言い方だな(汗))特異な能力をもう少し、スマートに洗練させることが
出来たら、かなり優秀な『カウンセラー』としてやっていけたんではないか…という
気がしたもので。
(長期の事務作業に携わると頭痛がするので、身体を動かす職業にしかつけなかった…
という刑務所の拷問で受けた後遺症さえなけれなね。とはいえ、しのぱさんにとっては
出所後、社会不適応者になったシンジが厳しい社会の軋轢の中で不器用に苦労し続ける
話しを書きたかったのだろうから、上記の設定は必須なんだろうけど)

かなり脱線しましたが(汗)ようするに続編の目標の一つは、本編で今一つ受けが
悪かったシンジを『スーパーカウンセラー』(爆)として描くことです。
カウンセリングというのは本来地味で、地道な継続した作業が必要で、スポーツや
芸術の世界と違って、極めて“天才”と呼ばれる種族が発生しづらい(何しろ、他人
の“心”を扱う商売だからね)世界であることは素人の自分でも重々知っています。
けど、そんな中で、生きるか死ぬかまで追いつめられた心の病んだ人間を極めて
短期間で立ち直らせる化物じみた能力を持つカウンセラーが存在したらどうなるか。
本編後のシンジをそんな『スーパーカウンセラー』として描くのが続編のテーマですかね。

『スーパーカウンセラー』そのものは現実の世界ではまず絶対に存在しないでしょう。
(というよりいたら恐い。非合法な薬物や洗脳を使わずに、己のプロパティだけで、
生きるか死ぬかまで病んだ人間を、当たり前のように短期間で立ち直らせるなど、
少なくともヒトの使える業ではないと僕は思う。)
けど、だからこそFF(FAN FICTION)の価値が出てくるというもの。
この現実世界に存在しないモノ(極論すれば“エヴァ”そのものもそうだし)
を、あたかも読者に存在するように感じさせるコトこそがFFの醍醐味ともいうべき
モノ(第四回目の論述で説明した“浪漫”(物語))なのでしょうから。
(例えば、“魔法”などが一番分かり易い例でしょう。
魔法そのものは現実の世界に一切存在しませんが、(それともするのかな?)
作者の力量(僕はそれを“浪漫”と呼んでいる)で、架空世界にそれなりの法則や設定
を構築し、その世界に存在する魔術師達の苦労・誇り・葛藤等を上手に描いているから
こそ、良く出来た“魔法モノ”を読んだ読者は、その世界をまるで現実の世界のように
リアリティを感じて、その世界に存在する魔道師達に感情移入(シンクロ)して作品を
まるで現実で起きた出来事のように楽しめるわけですから。)

自分の職業に誇りとアイデンティティを持って、EOEの罪と生涯向かい合いながら、
生きるか死ぬかの患者を相手に、最期までぎりぎりの世界を生き続けるシンジ。
そして、そんなシンジが唯一人心を許し、彼の疲れた心を潤して、影ながらシンジを
支えてくれる妻のアスカ。それが僕が理想とするシンジとアスカの関係ですかね。
(う〜む。何とも前時代的な考え方だ。(苦笑))
ただ、給料はカウンセラーのシンジよりも一級科学者のアスカの方が多い…という辺り
でリアリティのバランスを取る予定。
(カウンセラーって、技術の習得に手間と時間がかかる割には全然儲からないみたい(汗))

う〜ん。それにしても、この設定、本当にシンジ至上主義者の自慰全開の内容だな(苦笑)
最も、今現在の自分は全然シンジにシンクロしていないんですけどね。
(というよりも、作中のシンジが今現在の自分に比べてあまりに高みに行き過ぎて
しまったので、いつの頃からか意識してシンクロ出来なくなってしまった。(汗))
勿論、シンクロ出来なくなった今でもシンジが大好きなことに全然変わりはないので、
シンジ至上主義者という看板そのものを下ろしたわけではないが…。
(だから、『スーパーカウンセラー』なんて、しょーもないネタを考えつく。(苦笑))
さらに脱線するなら、そんなわけで僕は後章の途中辺りから、今の自分自身のプロパティ
に一番近いと思われた、ケンスケにシンクロして作品を描いていたのですが、
読者の中には、自分がシンクロ出来なくなったシンジが全然成長していないように感じて、
特に今まで築いてきたモノが何もないので、自分の想いを純化することしか出来ずに、
その場限りの一時的な瞬発力で活躍させたケンスケの方がすごく良い…て言っていた
ヒトもいるので、本当にキャラの感じ方は人それぞれ…という具合に分からないものです。

まぁ、何にしてもシンジ至上主義者である自分が、作中のシンジにシンクロ出来なく
なった…というのは、自分の中のエヴァを終わらせてエヴァから解脱には、ちょうど
良い傾向なのかもしれないです。(苦笑)
 
 

(3)総纏め

最後はサラリと纏めて、論述そのものを終了させます。
僕個人は、拙作「二人の補完」の続編のエンディングを、EOE後のシンジとアスカの
数多くある可能性の中の一つの真実の姿なのだと信じて、
『EOE後のシンジとアスカは途中本当に辛い事もあったけど、最後まで決して自分の
人生から逃げることなく、最期には一緒に幸福に人生を終えたのだな。
わ〜い。わ〜い。嬉ちいな。嬉ちいな。(^◇^)』
という風に、僕がエヴァに取り残されたただ一つの未練(僕の心を縛り付けている楔)
を振りほどいて、長い間さ迷い続けたエヴァの世界から解脱する予定ですが、
(う〜ん。本当に純粋に照れが入っているだけなのだが、もしかしたら
上の文章は喧嘩を売っているように感じるヒトもいるのかな。(汗)
不快感を感じたヒト、何とぞご容赦下さい。m(__)m)
当たり前の話しですが、僕以外の人間が、必要以上に自作から強い影響を受ける必要など
全くありませんので、『自分の貴重な時間を使ってでも、読む価値がある。』と思って
いただけたヒトに、ネット世界に星の数ほど存在するエヴァFFの中の一つ(One Of Them)
として、作者の意図(僕が論述で語ったコト)など全部無視して、自分の思うように拙作
を楽しんで読んでもらえれば、嬉しい限りです。
(その上で、肯定でも否定でも一向に構わないので、自作から正直に有りの侭に感じた
コトを伝えてもらえたら、言う事ないです。)

まだ、書きたいことがないわけではないですが、このぐらいにしておきます。
上記の事情により、僕にとっては論述で、どれほど御大層な御託を並べられたとしても、
それをどんな不完全な形でもいいので“浪漫”を持った『物語』の中で走らせるコトが
出来なければ何の意味もない事なので、(何より書けば書くほど自分の論客としての能力
の欠如を感じずにはいられませんので)何時、再出発できるかは全然分かりませんが、
そろそろ自分にとっての本筋(作品執筆)の方に立ち返りたいと思います。
(あくまで僕にとっては、物語の中でキャラの生様を表現しないことには、自分の中の
エヴァを終わらせられそうにないだけの話しなので、論述批評やキャラ論の意見交換等
を作品執筆より下に見ているわけじゃない…ということを予め断わっておきます。)

今まで、自分の論述(というより、単に自分の病んだ心情をウダウダと垂れ流した
だけのような気もするが(汗))にお付き合いいただけてありがとうございました。
今回で何とか論述も一区切り着けるコトが出来たので、否定的な意見でも全然構わない
ので、(ってこんな一人よがりの論述からでは否定・反発的な意見以外出てきようがない
ような気がしますが(汗))何か御意見を聞かせてもらえたら嬉しいです。
(かなり妙な方向に濃くなってしまったので、読んでて引いていたヒトがいなかった
ことを祈るばかりですが…って絶対引いたヒトはたくさんいたよな。(苦笑))

それでは…。
 
 

論述『たった一つの冴えない遣り方』終わり。
 
 
 
 


【名  前】Aoi Ryu
【タイトル】ロッテリアのモーニングメニュー。
  10/04 07:35
Mail: aoiryu@aoiryu.net
URL: http://www.aoiryu.net/
【メッセージ】
 もし、今日も食べたら、連続5日だね……(汗)。

 てなわけで、白いご飯がちと恋しくなってきた今日この頃でございます(^^;

 ……あ。生協に行って、注文した本を取ってこないと(^^; まあ、この
書き込みを大学から見れば大丈夫やね。

 #webスケジューラー代わりにしないように(爆)

 しっかし、ここのところページの更新が滞ってまして……一週間に一度
くらい書く日記(え?)を除いたら、既に2ヶ月更新してません(^^;

 #投稿もしてませんし(^^;

 というわけで、今は最長不倒記録を更新中……はう。
 書きかけのSSは当分完成しないし……あああ。
 他に手を付けれるでも無し……うああ。
 どうしたものか……はううん。

 錯乱しつつ。


【名  前】Aoi Ryu
【タイトル】オンライン出版。
  09/28 04:14
Mail: aoiryu@aoiryu.net
URL: http://www.aoiryu.net/
【メッセージ】
 最近、特に深い意味もなくエディングスを読み返しています。

 何故か、「タムール記」「マロリオン物語」「ベルガリアード物語」「エレニア記」の順と物語の流れとは無関係な読み方をしています。なお今は「ベルガリアード物語」に差し掛かったところ。まあ、一つ一つのシリーズはそれ単体で完結しているので、大した問題ではないとも言えますが。

 で、未翻訳の後日譚をオンラインで注文しようとしていて、「エレニア記」が絶版扱いになっているとの情報を目にしました。実は、同シリーズだけ角川スニーカーのレーベルで出版されていたのですが、どうやら読者層と合わなかったのではないかと思われます。

 てなわけで、いっそのことオンライン出版ででも再版してほしい今日この頃です。あ。そういえば、富士見ファンタジアから出ていた『ねこのめ』シリーズなんかも再版して欲しい本ですな。

 しかしながら、私の好む類のものは絶版だとか販売中止とかになる傾向が強いような気もします。例えば、タブクリアもそうでしたし。って、これは好きになった側に問題があったのかしらん?

 まあ、そんな中、再販されるものも稀にはありまして……ONEのサントラ2を最近購入したのですが、その中にサントラ1の再販案内が同封されてました。

 そういうわけですので、今日にでも郵便局に払い込みに行こうかと思っております……んー。っていうか、これは何のための書き込みだろう(をひ)。

 無理してですます調に直したために、文章がどことなくアンバランスなのが気にかかりますが、こんな感じ。


【名  前】BLEAD
【タイトル】二律背反
  09/23 19:33
Mail: blead@ky.xaxon.ne.jp
URL: http://www.ky.xaxon.ne.jp/~blead/
【メッセージ】
 おろ? 掲示板の題名が「総合」に戻ってる…珍しい。
 珍しいついでに今日はなんだかお休みなので書き込んでみる。

 ……と、思ったのだが完全に頭が飛んでいるので書こうかと思った内容を忘れてしまったり
なんかしちゃったりして……
 どないしょ?
 一晩に64MBダウンロードしたとか、なんか他にも…
 あ〜っと、さくらの新OPは作曲が菅野よう子で唄っているのが坂本真綾という凄く良い組み
合わせであるのだ、CDでも買おうか? う〜ん、弱いな。
 生き方を間違っている様な気もするが。
 突発的に思いつきで書く。

 いつもの事だが。

 台湾が地震。
 PCのマザーボードのメーカーが台湾に集中している為に値上がりは必須。
 Athlonでシステムを組み直す事を検討していた俺にとっては結構な痛手であるのかも知れな
い、何せまだAthlon用のマザーは出だしたばっかで価格はこなれるとはほど遠い状況なのだろ
うし、何より贔屓のメーカーからはまだ発売の発表すら無かった状況だから…ピンチ。
 どうせ色々買い揃えないといけないので高い買い物になるのは予測されていたのだが…まぁ
仕事は真面目にやっているし実入りも酷くはないし…なんとかするのだろうけど。
 他にAthlonで組もうと言う人って居るのだろうか?
 俺は天の邪鬼だからというのが主な理由なのだろうが(苦笑)

 絵は描けてもストーリーを描けない。
 文章表現は美しくてもストーリーに整合性も面白みも無い。
 なんて状況になったらその人の評価はどうなるだろう?
 前者はまだ良い、イラストレータだとかキャラデザで食いつないで下手な漫画を絵で買う連
中に買わせてどうとでも喰っていけるのだから。
 後者は……校正でもするしかない。
 なんとなく。
 二次創作と小説だの漫画だので人気ので他作品のTV化の区別が最近付かない。
 …というより、程度が同じ。
 アニメとかに限らない。
 情けねぇ。
 と、遠くから眺めている自分が居たりして。
 金が絡むという生臭い話になってしまいがちなのだが…要するにキャラグッズ売るための一
つの方策と考えるには余りにTV化の際にキャラを変えすぎて跡形も見えなくなる場合が最近多
い…そのくせに中途半端に面影が残っているのでタチの悪いことこの上ない。
 変な話、EVAとかウテナの様に同時進行にするとか…駄目ならCLAMPの様に漫画家がアニ
メの方面にもしっかりと口を出すか…すればいいのに。
 勿体ないお化けが出るぞ。
 折角自分で築き上げてきたものだってのに。
 確かに発表された瞬間に作者一人だけのモノで無くなってしまうと言う論はあるにはあるし
受け取り方とか言う意味で賛成は賛成。だけど…
 歪んだ形で伝えられるのに我慢できるのだろうか?
 よくわからん。
 …そんな訳で、出来る限り原作付きは避けることにしている。
 さくらの様な例外は除いて。

 精神年齢チェック
 37歳だと。
 精神年齢が。
 実際には22だから15差……同年代と話題が合わない訳である<まて

そんな具合 


【名  前】Aoi Ryu
【タイトル】実践、してます?
  09/13 22:57
Mail: aoiryu@aoiryu.net
URL: http://www.aoiryu.net/
【メッセージ】
 そもそも、日記などと言うコンテンツは、ありとあらゆるサイト管理者にとっ
て共通の悪癖の一つのように思われる。

 まあ、言ってみれば酒・煙草と同じようなもので、多少の効用と多少の害悪を
もたらすだけの存在に過ぎないのだ。

 同様に、SS書きにとっての悪癖とはチャットと掲示板の利用に違いない。

 とはいえ、酒と同じで、嗜み方によってはそれなりに有益さを見出すことも可
能だろう。

 #なお、私にとって、批評家の存在もそれとほぼ同様のものであるのだが、そ
れは今回の話とは無関係だ。

 逆に、煙草のように害悪の側面ばかりが目立つ場合もある。

 ***

 さて、ここまで書いたが、疑いの向きのある方もいるかも知れない。そういう
わけなので、ここで一つばかり実例を挙げてみよう。

 私の日記は上記の区分けでいくと「煙草タイプ」の好例――いや、悪例と表記
すべきか?――で、総合でのネタにするか、チャットでの話の種にするか、はた
また自分のサイトの日記で取り上げるかで常に決断を迫られる原因となっている。

 さらに悪いことに、他のところでネタを使い果たした結果、日記で書くことが
さっぱりなくなると言うことが多々ある。

 問題は、総合と日記で扱われる事柄が被っていることなのは解っている。

 もし、私がどちらかをすぱっと止めることが出来るのなら、全ての問題は自ず
と解決するはずなのだ。

 が、それなのに日記はしつこく存在し続ける。自分から進んでやめる気には決
してなれないのだ。

 ……これを悪癖と言わずして何と言おう?
 


【名  前】BLEAD
【タイトル】ならば、という訳でも無いが、俺は時任三郎に似ているらしい。
  09/11 07:14
Mail: blead@ky.xaxon.ne.jp
URL: http://www.ky.xaxon.ne.jp/~blead/
【メッセージ】
 何故に牛若丸三郎太……
 等と朝っぱらから未だに飽きずにムービーダウンロードしながら考える(^^)

【名  前】gakusan@じいこん
【タイトル】子供の頃、金嬉老に似ていると云われた(笑)
  09/09 21:54
Mail: gakusan@pluto.dti.ne.jp
URL: http://www.pluto.dti.ne.jp/~gakusan/g-construction/index.html
【メッセージ】
>何故か鈴木あみに似てる言われた…前、ギバちゃん…謎

をを、なんとなく思い描いていたイメージにぴったり(巨爆)。


【名  前】何故か鈴木あみに似てる言われた…前、ギバちゃん…謎
【タイトル】訂正
  09/09 19:21
Mail: n-eno@mtd.biglobe.ne.jp
URL:
【メッセージ】
>19991919

1999991919だった(爆)


【名  前】何故か鈴木あみに似てる言われた…
【タイトル】記念
  09/09 19:19
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19991919